地下街のアラバマで
k.ジロウ

僕が見たのはほんの一部さ、あいつはちょっと気が狂っているんだ、あそこに座っている天使のことさ、昨日だって地下鉄であいつを見かけた、陽気なポルカを歌いながら列車を渡り歩く。
いつだったか僕が見かけてしまったのはあいつが、人を突き飛ばすところさ、人混みに紛れて、新聞を広げて列車を待つ中年の紳士を・・・、あいつの腕はひどく細いのに紳士は簡単にホームから転げ落ちた、近くにいた人々は、中年の紳士が突然ホームから飛び降りたと証言した、だけど僕は見たんだ、あいつの腕が紳士の背中を押し出すところを、あの痩せこけた頬が見えるかい?
僕はその場からすぐに立ち去った、あいつと目があったらきっと僕に話しかけてくるに違いないから、僕はその場から立ち去った、あいつの背中の羽は随分とすり切れていて鳩みたいだ、僕はそれを見たくないと思う、あいつの目はきっとただれた善意で出来ている、あいつのしわがれた不快な声はそれにふさわしい行為の結果だと思う、僕は風呂場で歌をうたってみる、あの陽気なポルカを、僕は鏡に向かってあいつの真似をする、真似ても似ても似つかないことを期待する、恋人には見られたくない仕種さ。
あいつはちょっと気が狂っているんだこんな風に、人々の心の仕掛けをいじくりまわす、ある男と女が出会って激しい恋をした、その男には妻と子供がいて彼らは幸福だった、そう幸福だった、あいつはそんな場面に現れる、あいつは手始めに小さな疑惑の種に姿を変えた、男の妻は自分のものとは違う色の髪の毛を、男の衣服から見つけた、あいつは次に妻の気丈さと男への信頼に姿を変えた、妻は自分の夫を信じて何事もなかったように男との生活をし続けた、そして、あいつは馴れた手つきで、ある男とその女の激しい愛に姿を変えた、あるとき、ついに男は妻と子を捨て女と姿を消した、あいつは素早かった、あいつは捨てられた妻の絶望に姿を変えた、妻はいとも簡単にアパートの一室で首をくくった、あいつは部屋をでるとき気まぐれに子供に尋ねた、お前には俺が見えるかい?と、子供は静かにうなずいた、子供はやがて大人になって、僕になった。






散文(批評随筆小説等) 地下街のアラバマで Copyright k.ジロウ 2009-01-26 14:28:39
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