よい朗読は魔術
里欣
よい朗読は魔術。
アンソロジーを目で読むだけでは分からないダイヤモンドのような立体感。
よい朗読は詩人の感覚中心まで案内し、こっちの魂が揺さぶられる。
十一月一日から二日、日本国内初の大規模という国際詩祭、東京ポエトリー・フィスティバル2008に、日本を含めて二十一カ国から四十人ぐらいの詩人が参加した。
百聞は一見にしかず。
肖像素描したくなるぐらい、各国詩人の風采を感慨しても、絵画学生らしい姿が目にしない。
いろいろ母国語の響きがもっと尊い。
外国語大の学生たちにも素晴らしい語学の機会だと思ったが、地元の明治大学の生徒ですらあまり見当たらない。
三日に詩のボクシング全国大会が控え、詩朗読の常連さんも前夜祭朗読会バーへ。
たぶん世界の詩人たちも、詩ボクいう民間のイベントを知らず帰国しただろう。
自作朗読の途中に翻訳などの隙間が入ったりして、オペラみたいに字幕をつけて、最後のスピーチを朗読の前に行ってほしい、日本詩人のスピーチも聞きたいと、内心でリクエストしながら、二日間過ぎた。
一方、いままで身近でありながら風のようにすれ違ってきた俳句、短歌を、日本語で聴き、次に英語で聴き返し、さらに日本語を聴き進み、また英語訳を聴き比べているうちに、不思議に魅了されつつ、日本語もなんとクールで粋な響きだと改めて感心した。逆輸入みたいな発見だった。
冲ななもの短歌では、もとの語順を分割、往復、繰り返し、无限の変化に聞こえた。
映画評論家の馬場駿吉がイタリア風景のスライドをバッグに、英語圏詩人と肩を並び俳句を読む。
これほど手ごわい伝統と革新を持つ俳句、短歌と同じ土壌で勝負をし、もちろん互いに習いあってきたが、日本の現代詩も、なかなかたいへんだなと、なぜか思わず自分まで緊張のため息をつく。
さすが後半になり、詩人たちが自作を読み、他言語圏の詩人に訳詩を読むように工夫して、盛り上がった。
日本の詩人も海外の朗読祭へいくとき、英語で朗読より、むしろ胸を張って日本語で読み、地元の俳優に現地の言葉で読んでもらえたら、日本語詩本来の力と味を出せるのではないかとふと思う
その後、詩ボクも見た自分が唐詩へ郷愁を感じ、しばらく寝る前の枕元で読んだ。
音から入る詩。
詩は音から。
唐詩も『論語』だって昔子どもたちが読み書きできる前に音から記憶に入り、意味よりリズムのほうが先に刻まれたのではないか。
最近小四の息子も、教科書音読の宿題でいろいろな語調でこっちを楽しませている。
サボった何日分をまとめて読んでいるうちに、時に詩のボクシングの真似、時に『篤姫』の西郷隆盛風に変わった。
彼は詩ボク東京大会を見に行き、短縮に編集された全国大会のNHKBS番組も楽しんだ。
週末、将棋大会でもらった伊藤園のお茶を手に、親子でラベルに印刷された俳句を、声を出して読みながら考えた。
詩はやっぱり声を出したほうがいいですね。