君の背中に追いつかない
秋桜優紀
緩やかな光が零れ、草いきれを辺りに漂わす新緑を透かして、アスファルトを淡く照らす。優しく吹く風は木々を揺らし、その揺れに驚いた小鳥が二羽、三羽と飛び立つ。呆れ返るくらい平和すぎて、見ているだけで欠伸をこぼしてしまいそうになる春と夏の境目。この季節が好きな私は、この空気が永遠に続けば世界から戦争はなくなるのになあ、とか何とか短絡的に思ってしまいます。
「もうやだ」
既に何度目かわからない独白を空に放り投げ、真っ白なシーツの上で寝返りを打った。棚に据えられた花瓶に生けられた、見事な花束が目に入ってくる。
「あんた、また、そればっかり」
私の横で林檎の皮をむいていた母が、果物ナイフを握る手を止めて溜息混じりに嗜めた。
「だってさぁ……」
慣れ親しんだ一年生のクラスと別れ、緊張した面持ちで挑んでいた二年生のクラス。それにもやっと慣れ始め、これから新しいクラスメイトと上手くやっていこうという矢先に、何が悲しくて病院のベッドの上で一日中寝そべっていなければならないのか。それに――
「まぁ、あんたは子供の頃から今くらいの季節が好きだったしね。高校生にもなって、一日中散歩して、ヘトヘトになって帰ってきたり。まぁ、鬱憤が溜まるのも仕方ないか」
母はふふと微笑みながら、皮むきを再開した。林檎は一瞬の淀みなく赤を失い続け、しかもむかれた皮は一度も途切れることなく、ゆったりとした螺旋を描いて重力に従っている。思わず拍手を送りたくなるほどの腕前だ。
「でもさ、入院なんて大袈裟だよね。ちょっと具合が悪いだけなんだから、通院あたりで良いのにさ。ねえ?」
白く化粧の済んだ実を手の上で櫛形に切り分けた母は、私の愚痴には答えないで林檎を一切れ、楊枝で突き刺して寄越した。「ありがと」と口の中で呟いて一口囓ると、甘酸っぱい香りが口中に広がる。
林檎の楊枝を弄びながら母を覗き込むと、穏やかな微笑の中に、どこか引きつったような陰を落としているのが見てとれた。それは、普段だったら気付けないくらいの微かさで。だけど、鋭く尖った今の私の感覚には、それがはっきりと鮮烈すぎるくらいに感じられる。
あの日――私の人生が変わったあの日、私は体育の時間に突然倒れ込んだ。クラスメイトに心配されながら保健室に運び込まれ、しばらく休んだのだが、どうにも体調が良くならない。そこで、念のために母と病院に行った。念のため。そう、ただそれだけのはずだったのだ。
覚悟や予感など、少しも無かった。早く薬をもらって、帰ってだるい体をベッドに沈めたかった。両親と一緒に診察室に呼ばれたときでさえ、私は何の予期もしていなかったのだ。
その日、医師から神妙な面持ちで告げられた検査結果は、私にとって現実味のない他の誰かのことに聞こえた。病名は忘れてしまったけれど、とにかく酷く悪いのだということだけは理解できた。
「早く、退院できると良いね」
「あ、うん……」
私自身が、いくら現実から目を背けようとしても、ダメなのだ。一番身近な人が、それを私に突きつけ続けるのだから。今まで大切に育ててきた私のことが心配で堪らないのだろう。それでも、その心配が私の心を抉る痛みに、彼女たちは気付いていない。その状況への嬉しさだとか悲しさだとか、そんな感傷よりもずっと強く、冷たい残酷さが私の胸中を支配しているのを感じる。
母が楊枝に刺しては差し出す林檎を咀嚼していく度、不安や寂しさや悲しさや、そんな不の感情が一緒くたになった澱のようなものが一緒に噛み砕かれて、緩々と私の中のどこかに溜まっていくのを感じた。思わず鼻の奥がジンとする。
でも泣いてはダメだ、また「心配」される。
林檎丸々一個を胃袋に収めてすぐ、母の手編みのカーディガンを寝巻きの上に羽織りつつ、ベッドから立ち上がった。
「どこ行くの?」
「ちょっと散歩。寝てばっかりもあれだしさ」
「それなら、お母さんも一緒に……」
「ああ、良いよ良いよ。病院の中を適当にぶらつくだけだし」
「あ、そう……気をつけなさいね」
私に、両親を心配させる権利なんて、傷つける権利なんてない。そういう傷を背負って、これからまだ生きていくのは彼女たちの方なのだから。
だから、私はまだ笑っていよう。どんなに苦しくて、どんなに涙したいときであったとしても。唇を強く噛み締めれば――ほら、何とかなる。
歯並びのあまりよくない歯の隙間に挟まった林檎が気になる。こうなると、舌で触っているだけではどうしてもとれない。まるで、私の片隅にある何か良くわからないしこりのように。本当に、もどかしくて仕方ない。
「行ってらっしゃい」
背中越しの母の声。
「あ、うん。行ってくるね」
嗚咽に揺れそうな言葉を必死の努力でもって保って、病室の外へと続く扉を開ける。
傷は全て私が引き受けてあげる。どうせ、もうすぐ死ぬ身なのだから。
出口をくぐる瞬間、浮かべようとした苦笑の表情を妨げたのは、思いがけなく漏れた小さな苦痛の呻きと、こらえきれずに流した塩辛く口中を染める涙の一筋だった。
病院の廊下を練り歩いたところで、そこまで気が晴れるものでもない。でも、赤く充血してしまった目が元に戻るまでは仕方がない。
辺りに充満しそうになる独特の消毒薬の臭いを、開け放たれた窓からの風が爽やかに払う。そんな感触までもが、今の私には腹立たしくて仕方ない。隔離された狭い世界にもたらされた、どこか遠くにある広い世界からの余計なお節介のような気がして。
私も少し前まではそこにいた。当たり前の顔をして、それが幸せだなんてことには気付かずに。悔しい。十六年と少しでその生涯を閉じなければいけないなんて、余りにも不幸すぎるじゃないか。私にはまだまだ、したいことがたくさんあったのに。
気持ちのよい空気を運んでくる窓のサッシに手をついて、軽く身を乗り出してみた。遥か下に、コンクリートの地面が見える。ここは五階だから、それなりの高さがある。ここから跳べば、即死とはいかなくても多分死ねるだろう。
これからまだしばらく、私の心を内側から蝕んでいくこの暗い感情と付き合っていかなければならないのならば、それよりも遥かに楽な選択なのではないだろうか。このサッシを乗り越えるという行為は。
サッシを握る手に力がこもる。あとは鉄棒の前回りの要領で、体を向こう側に放るだけ。ほんの一瞬で片はつく。
三十秒ほどそうした後、小さな笑いを漏らしながら、窓から離れた。
初めから、私にそんな選択肢はない。私がそうすることによって、より深い悲しみを獲得するのは、他ならぬ私の両親なのだから。
私自身がもうしばらくしかもたないと気付いてからは、私が一番大切に思うものたち。親よりも早く死ぬ出来損ないの娘なんかよりも、遥かに尊い存在。そして、そんな出来損ないを生んだ、一番憎らしい存在。その両面を完全に揃えた彼らは、あまりにも愛しい。
私には自ら死を選択する権利すらない。私にはもう、何もない。
気分転換どころか、更に気分が塞ぎ込んできた。目の充血も更に酷くなっているだろう。最近癖になってしまった溜息を吐きつつ更に歩を進めると、何やら騒がしい二人組が前方に見えてきた。
「私のぬいぐるみ返してよ!」
「だからほら、返してるじゃないか。早くとれよ」
パジャマに身を包んだ小さな男の子と女の子が、何やら言い争いをしている。
男の子が差し出したクマのぬいぐるみに、女の子が手を触れる直前で、素早くそれを頭上に掲げる。女の子はそれには届かない。何度も飛び跳ねてぬいぐるみをとろうとするが、男の子が見事なディフェンスでそれを許さない。でも、手を引っつかんでそんなに振り回したら、クマさん、手もげちゃうよ。可哀想に。
「返してってばぁ!」
「へへっ、やーだよーっだ」
必死に手を伸ばす女の子とは裏腹に、男の子は少し楽しそう。あれくらいの男の子が、好きな女の子にあんな風に嫌がることをする心理は、今の私にはなんとなくわかる。照れくさくて、素直に近づけなくて。それでも、構っていてほしいから、見ていてほしいから。あんな逆説的な行為に至る。
あの頃の私にはわからなくても、今の私にはわかる。そういうことは少しずつ増えてきた。だけど少なくとも、その女の子に君の気持ちの真意がわかるのはまだまだ先の話。そして、それに君が気付くのも。
取り合いを続ける二人の傍に、気付かれないようにそっと近づき、男の子の後ろに回る。
私の腰ほどまでしかない男の子が目一杯に伸ばした腕は、ちょうど私の目の前で、腕の付け根がわずかに綻んだぬいぐるみをぶらつかせる。
それを奪うのは造作もない。男の子が女の子に向かって舌を突き出した瞬間に、ぬいぐるみの腹部を素早く掴み取り、それを顔の前に掲げて繁々と眺めた。それほど可愛いわけではないが、何というかぬいぐるみのくせに味のある顔をしている。少し薄汚れた様子から、どれほど持ち主が大切に持ち続けたのかがわかる。そういえば私にも、小学校の低学年くらいまで、大切にしていたウサギのぬいぐるみがあった。もし、この病院から生きて戻ることがあるなら、押入れの奥から彼女をまた引っ張り出してこよう。
しみじみとしている私に、下方から注がれる視線は、訝しさと驚きが入り混じったような複雑なものだ。私が我に返り、小さな二人に顔を向けた瞬間、男の子は顔を真っ赤にして叫んだ。
「ちょっと、返せよっ!」
私はそれを無視して女の子の前で腰を屈め、満面の笑顔と共にぬいぐるみを差し出した。
「はい、これ」
女の子はしばらく戸惑って、私の顔とぬいぐるみと男の子とを見比べていたが、やがて納得したようにひとつ頷いて、
「ありがとう、お姉ちゃん!」
ぬいぐるみを受け取って、どこかへと走り去って行った。
いいことをした後は気分が良い。くさくさした感情も薄れたので、腰を上げて自分の病室に帰ろうとして、はたと、立ちはだかる男の子の存在に気付いた。
「どうして返しちゃったんだよ!」
必死に問い詰める男の子は、ぬいぐるみをとられたこととは違う理由で酷く悔しそうだった。彼の気持ちに見当がついていながら、少し悪いことをしてしまったかと思い当たったが、それはそれ。彼がしたことは、あの女の子にとってはただの「意地悪」でしかない。きっと苦しい時間だったのだ。私がしたことは、そう間違ってはいないはずだと思う。
「どうしてって、あれはあの子の物でしょ?それも、きっと大切な」
「違うよ、あれは、だって、あいつが……」
「いいから。仲直りしたいんなら、ほら。謝ってきなよ」
「だっ、誰があんな奴と!」
「あんな奴だなんて言うもんじゃないよ。大事なお友達なんでしょ?」
「うるさい!そんなわけねぇだろっ!」
「ふーん……」
「そっ、そうだよ。だから、余計なこと言うなよ!」
子供とは言え、さすがに少しカチンときた。短気なのは昔からだが、病院暮らしのストレスと相まって、最近益々我慢ができなくなっている。
「俺だってしばらくしたら返したよ!余計なことすんなよ!」
「――そう」
「だからっ、あ……」
私は、少し機嫌が悪くなるとすぐに過剰に顔に出る。別にそこまで腹を立てているわけではないのだが、普段が柔和な顔つきであるが故にギャップが大きいのだろうか。友人には「女神の怒り、って感じ」と形容されたこともある。
私の鬼気迫る眼光に、子供ながらに気付いたのか。一歩、男の子が後退る。
「じゃあね」
私は男の子が黙った隙に、自分の病室に帰ることにした。良い具合に自責の念や絶望感が薄らいでいる。病院という限定された生活の領域の中で、こうして両親や自分以外に対して腹を立てたことなど、本当に、本当に久しぶりだったのだ。
しかし私が今、男の子に対して抱いているのは、禍々しい怒りや憎しみなどでは決してない。こうして、私もまだ何かに腹を立てられるのだと気付けた。それに対する、感謝のようでさえあったのだ。
寝てばかりで体力の落ちた私の体には、この程度の短い散歩ですら少し堪える。わずかな力で開くはずの病室への引き戸でさえもが重い。両手で持ち手を掴み、それにもたれるようにして開けると、そこには誰もいなくなっていた。ベッドの隣のテーブルには、見慣れた几帳面な字で「仕事に行って来ます」との書き置きがあった。
本当は入院が決まった直後、母は私の看病の為に仕事を辞めようとした。しかし、それを止めたのは他ならぬ私自身だった。そんなことがして欲しいわけではない。そんな献身が私の病状を変えるわけでもないのだから。
そうなるとお母さんも、四六時中私に付いていられるほど暇なわけではない。彼女には彼女の生活があり、そのお陰で私には一人で様々なことを考える時間ができた。しかし改めて考えてみると、母は私の傍にいたかったのだろう。でも、日に日にやつれていく私を見て絶望し、泣きじゃくる彼女をずっと見ているだなんて、そんなことは私には無理だ。
母は悪くない。だが、病気の娘を支える母親という役回りを果たすには、幾分弱すぎるのだ。自分の感情に素直になりすぎて、それによって私がより辛い思いをしていることに気付けていない。
無意識に卑屈な笑みを一つ漏らし、そのままベッドに倒れこむ。交換されたばかりでパリッと糊の利いた掛け布団を胸元まで上げると、急激に眠気が襲ってきた。
今日は疲れた。たくさんの出来事があり、たくさんのことを考えた。それが、結局はどこにも辿り着かないものだと知りながら。
このまま、目が覚めなければ良いのに。――どれだけ、そう願っただろうか。いつも結局、叶わずに目を覚ます。その度漏らすのは、まだ息をしていることへの落胆の溜息。
ああ、いつからなのだろう、こんなにも卑屈になったのは。少なくとも、前はこうではなかった。死を願う自分など、思い描いたこともなかったのに。
眠い。まともに考えることができない。
少しずつ薄れていく意識の中で、私の中に残ったのは言いようも知れない悔しさだけ。
生きていたい。だけど、それは許されない。運命は、私にそれを許してはくれない。死にゆく己の運命を目の前にいつも突きつけられていて、それでも生きていたいとは思わない。思えるはずが――ない。
眠気に負けて、ついにまぶたを閉じた。そのとき私の頬を伝っていったのは、私が生きている、まだ人である証。闇に沈んでいく意識の中で、塩辛い雫で湿った枕の冷たさを、私は確かに感じていたのだ。
――こんこん、こんこん。
静かに、少しずつ鮮明になる意識と共に、乾いた音が頭の中にまで響いてきた。
眠る前にはまだ明るかった辺りはもう薄暗く、目だけを動かして見た時計の短針は夕方の時刻を指している。久しぶりに随分眠り込んだようだ。病室にほの暗く差し込む橙の夕陽の美しさを、寝惚け眼のままに見つめる。
こんこん。
また、乾いた音。
(――何?)
上体だけは起こしたものの、頭の中は未だにはっきりしていない。音の意味を捉えかね、白塗りの戸を見つめたまま、しばらく考え込む。たっぷり数秒そうした後に、ようやくそれが、遠慮がちに響くノックの音だと気付いた。
「ああ、はいっ。どうぞ!」
友達が見舞いにでも来てくれたのだろうか。慌てて髪を手櫛で梳かしているうちに、小さなノックと同じくらい遠慮がちに、引き戸がゆっくりと開いた。
「――こんにちは……」
そこに立っていた小さな背格好は、私の想定したどの友人の姿とも違っていた。短く仕上げられた髪の毛も、随所に見られる顔の不完全さが示す幼さや青色のパジャマも、何一つとして彼女たちに合致するものはない。
「あ、昼間の……」
そう。今病室の入り口に居心地悪そうに立っているのは、女の子からクマのぬいぐるみをとり上げていた、あの男の子に他ならなかった。
「どうしたの?あ、入ればいいよ」
「あ、うん……」
男の子が一歩踏み入って、後ろ手で思いっきり戸を閉めた。――思いっきり。戸は破裂するのではというほどの大きな音を立てる。男の子は飛び跳ねるほど驚いて(実際に小さく跳ねた)、反動で開いた戸をおろおろと静かに閉めた。そして、ちらりとこちらの様子を伺う。見つめてくるその目から、何か恐怖に似た感情が滲み出ているような気がするのは、きっと勘違いではないのだろう。初めての出会いがあれでは、それにも無理は無い。事実それを示すかのように、戸を閉めた男の子は一歩病室に入ったきり、こちらへ近づいて来ようとはしない。
「こっちへおいでよ」
手近の椅子を指差して手招くと、男の子は見たことも無いくらいの慎重さで、恐る恐るこちらに近づいてきた。まるで、私の周りに周到に罠が張り巡らされているのではと疑っているかのように。
「あ、そこ踏むと爆発するから気をつけて」
冗談交じりにそう言って彼の足元を指さすと、弾けたように体を捻って器用に着地点を変え、危機一髪とばかりに手の甲で汗を拭った。
――本当に疑ってたのか。
それからも男の子は変な具合に身体を捻りつつ、ようやくベッド脇の椅子にまで辿り着いた。
「……」
「……」
お互い向かい合ったのは良いが、それから気まずい沈黙が続く。お互い何故か息を殺していて、息遣いの音さえしない。秒針の音と、水道から水滴がこぼれる無機質な音だけが、無音の病室に冷たく響く。それに重なるようにして、身体の奥で心臓がトクン、トクンと脈を打っていた。
私はまだ、生きている。生きていると、息もしなくちゃいけない。意味も無く息を殺しているのもいい加減苦しくなってきたので、仕方なく口火を切ることにした。
「それで、どうしてここに来たの?」
男の子は視線を上げて私に焦点を合わせた後、何を言うべきかと言葉を探して、視線を虚空に彷徨わせた。
「謝りに……来た」
「謝るって?」
「いや、何か良くないことたくさん言ったし、それにその……色々ありがとう、って……」
「色々?」
「うん、色々」
「いや、色々って?」
「や、だから色々」
「色々じゃわかんないよ」
「ああ、もう。俺だって良くわからないんだよ!でも、何かもやもやしたから、っていうか。色々なんだよ!とにかくごめんなさい、ありがとう!」
いきなり叫んで立ち上がった彼の真剣な表情を見て、何だか急におかしくなってしまった。堪えきれずに、思わず吹き出す。
「なっ、何だよ。笑うことないだろ」
「うんっ、ごめ……くくっ。ごめんねっ、ふふっ、あははは」
男の子は納得のいかないような憮然とした表情で私を見下ろしていた。
良くわからない、もやもやしたもの。そんなもののために、彼は真剣に謝ることができる。子供だからこその混じり気のない真っ直ぐな気持ちは、受け取る人を心地よくさせてくれる。それは、私も例外ではない。男の子に悪い気はするけれど、こんなに笑ったのは本当に久しぶりだ。入院して以来、こんなに笑える日が再び来るとは思っていなかった。この男の子は、本当にたくさんのことに気付かせてくれる。何だかそのことが、嬉しくて仕方なかった。
「あはは、ありがと、ね」
「何がだよ」
「ううん。何だかわからないけど」
「何だそれ」
本当は君ととても似ている感情なのだろうけれど、言葉にするのはやっぱり難しい。彼が「よくわからない」と言ったのも、今なら納得できる。
男の子は壁にかけられた時計を見やり、やべっと小さく呟いた。
「俺、もう戻らなきゃ」
「そう。わざわざありがとね」
男の子は椅子から立ち上がって振り返ると、そこに大量の罠が仕掛けられているのを思い出して、一瞬青ざめた後、また変な具合に身体を捻って出て行こうとする。
「気をつけてね」
嫌味含みでそう言うと、男の子がおかしな体勢のままに振り向いた。よく立ってられるな、と感心してしまう。
「危ねぇなぁ。病院で死人が出るなんてシャレにならないぞ」
「優秀なお医者様がたくさんいるから多分大丈夫でしょう。多分」
「多分」の部分に力を込めて言うと、男の子はギョッとしたように私の顔を覗き込んだ。
「ま、今度は全部外しとくから」
男の子に向かって抑えきれない笑みを浮かべて、私は言う。
「良かったら、また来てね」
嬉しかったのだ。彼といると、誰といるよりもずっと嬉しい。あの嫌な感情のことを考えなくてよくなるだけではない。彼の、計算や打算の無い率直な感情や、ぶっきらぼうな物言いの影に見え隠れする彼独自の優しさや、そんな色々が、私にとってはとても価値あるものとして感じられる。彼が、単に深いことを考えない子供だからと言うことだけではない。それだけでは説明できないほど遥かに大きいのだ、この喜びは。
「君といるの、すっごく楽しいから」
「ゆうと」
「え?」
男の子の流れを断った発言に、戸惑う。
「俺の名前。悠々自適の悠に人で『悠人』。『君』なんかじゃないよ」
「ん、そっか。なんか君らしい名前だね」
「だから、『君』じゃねぇってば」
「ごめん、ごめん」
その会話の間にも少しずつ出口に近づいていく悠人に笑いかけてから、ベッドに身を沈めた。夕陽はとっくに沈んでいて、もうすっかり、漆黒を塗りたくったような夜の暗さになっている。
「また、すぐ来るからな」
閉まる扉のパタリという音に紛れて、悠人の小さな声が、それでも確かに私の耳まで届いた。
「うん、待ってるからね……」
母がその夜やってくるまで、私は蛍光灯もつけずにそのままベッドに寝転んでいた。暗い部屋で天井を見上げ、悠人の言葉をひとつずつ思い返しては、人工の光にあっさりとかき消されてしまいそうな、悠人から受け取ったよくわからないたくさんのもやもやとしたものを、ずっと心の中で転がし続けていたのだ。
悠人はそれから、ほとんど毎日私の部屋にやってきた。
十六の女子高生と九歳の小学生(悠人はしきりに「高学年だからな!」と念を押していた)がすることなんて、特に一貫していない。他愛ない雑談(やっぱりあの女の子のことは好きみたいだ)や、勉強(悩みどころに見当すら付かない問題と、悠人はずっと睨めっこしていた)や、ボードゲーム(お祖父ちゃんに教わったらしく、意外にも悠人は将棋が強い)等々、どれも全て退屈凌ぎ程度のものだ。
そうして二ヶ月ほどが過ぎ、季節はすっかり夏に移り変わっていた。ギラギラと照りつける太陽の下、子供たちは海や山に繰り出し、若い男女は腕を組みながら縁日の屋台を回る。何というか、世間ではこの暑い季節を、情熱とでも呼ぶべき煌びやかなエネルギーでもって謳歌していた。
一方、病院から出られない私は、阿呆みたいに鳴く蝉の声に耳を塞ぎ、毎朝起きる度に滲んでいる汗の不快感に悶え、窓から忍び込んでくる熱気に顔をしかめることしかできなかった。夏なんて。
それでも悠人がいることは、私にとって大きな救いとなっていた。新しい水着を着て海に繰り出したり、浴衣を着て屋台で金魚掬いに興じたりしなくても、私は随分楽しい毎日を送れていたように思える。
それでも、病状を示す様々な数値は日を追う毎に悪くなっていて、テレビや小説に出てくるような奇跡なんて、やっぱり起きないんだと実感した。私は死ぬ。それを大前提として、私はしばらくの余生を生きなければならないのだ。苦しい。悠人がいなかったら、とっくに私は生きていなかっただろうと、やっぱり思う。
そんなある日、母親から差し入れられたひいきの作家の新作を読んでいる私の元に、悠人が大量の折り紙を持って現れた。
「今日は折り紙?」
その中の赤い一枚を指で摘んで悠人に問う。
「まあね。でも、ただの折り紙じゃないんだぜ」
悠人はにい、と笑って、素早く黒の色紙を折り始めた。程なくして、一つの形が現れる。
「鶴?」
折り方が雑であるせいでかなり不恰好ではあるが、それは紛れも無く折鶴であった。
「お姉ちゃん、千羽鶴って知ってる?」
「ああ、うん。もちろん知ってるよ」
「それ、作ろうぜ」
悠人は、ナイスアイデアとばかりに胸を反らして、自分の折った黒い鶴を高く掲げる。
「千羽鶴って、お見舞いなんかに持ってくものじゃないの?」
「いっ、いいんだよ、別に。それに、自分で作った方がなんか強そうじゃん。ほら、やっぱり病気の人の気持ちって、本人が一番良くわかってることじゃん。だから強いんだって、とにかく。こう、思いがこもってるーみたいな」
「ああ……そうかも」
「だろ?」
悠人はほっと胸を撫で下ろして、早くも二羽目に取り掛かっていた。
悠人のその言葉に、私は驚愕を感じた。悠人はただその場凌ぎの言い訳として言ったのであろう。別に深い考えの下に言ったわけではない。しかし、そんな悠人の何気ない言葉に、私の心は強く動かされていた。
私も病気になる前は、こんな気持ちは知らなかった。死を前にして生きる毎日が、こんなにも苦しいだなんて、思いもしなかった。
小学生のときのことだ。私のクラスには少し体の弱い子がいた。性格は明るく、優しい心根の女の子だったが、学校を休むことが多く、体育のときもほとんど見学をしていた。球技のときなんかは良いが、授業内容がマラソンのときは、座ったままでにこにことこっちを見ている彼女を、少し羨ましく思ったこともあった。
あるとき、マラソンを走り終わってヘトヘトのとある男子が、皆にタイムを告げている彼女に向かって、そのことを実際に口にしたことがあった。無論、男子はその子を責めて言ったわけではない。ただ、軽口を叩いただけのことであったのだ。
彼女は泣いた。それも、大声で泣き喚いたわけではない。ただ静かに涙を零すだけ。本当の心の奥深くの悲しみとやりきれなさで、泣いた。実際、それに気付いたのは泣き出した女の子を見て大慌てだったその男子と、私くらいのものだっただろう。でも、そのときの私には彼女の気持ちがよくわからなかった。何故あの子はあんなに悲しそうに泣いているのだろうと、首を傾げてさえいたのだ。
でも、今ならわかる。彼女は走りたかった。他の子たちと一緒に思いっきり走って、立てなくなるくらいに疲れてみたかったのだ。
他の子と違う、他の子にはできることができない。それを誰が責めたわけでもない。それでも彼女は、他とは違う自分が堪らなく嫌だったのだ。「走りたい」。そんな小さな願いすら叶えられない自分の身体が邪魔で、憎くて、できることなら誰かと取り替えたくて仕方なかったのだ。
中学に上がってから、彼女の姿は全く見ていない。生きているのか、死んでいるのかさえも知らない。ああ、でもそうだ。確かにわからない。病気の辛さは、悔しさは、病気になってみないと気付けない。表面上はわかったつもりでも、根本的なところでは決して交わらない。
あれから二ヶ月が過ぎて、クラスメイトからのお見舞いは、格段に減った。もう、誰かが一ヶ月に一度来てくれれば良い方かというくらいにまでなっている。そんな人たちが作ってくれる千羽鶴と、今の私の気持ちを顕在化した千羽鶴。どちらが強いかと問われれば、答えは明白だ。
「よっしゃ、できた!」
悠人の叫びで我に返る。
「何だよ、お姉ちゃん。まだ全然できてないじゃん」
悠人は不細工な二羽の折り鶴を、得意そうに私に突きつける。
「俺はほら、もう二羽」
「これ、頭折ってあるじゃない」
「え?」
悠人の折り鶴の尾となる部分の片方は、律儀に折り曲げてあった。
「千羽鶴の鶴は、病気が治りますようにって上を向いてるから、頭も真っ直ぐにしないとダメなんだよ」
悠人は知らなかったとばかりに、じっと自分の鶴を見つめてしばらく悩んだ後、いかにも最初から決めていたように叫んだ。
「これは、ほら、特別製なんだ。『悠人スペシャル』なんだよ!」
「何よ、それ」
「上に昇っていったら天国に行っちゃうじゃん。だから、こう、前を向いて前進!って、ほら、だからさぁ……」
自信なさ気に尻すぼみになる悠人が、何だかとても可愛く感じられた。ふざけて悠人を思いっきり抱き締めてやると、やめろよぉ、と必死に身を捩って逃げようとする。
悠人とどうなりたいとは思わないけれど、もし誰かに訊かれたら胸を張って答えたい。「悠人は私の小さな恋人です」、と。もっとも、悠人は必死に嫌がるだろうけれど。
「ほら、さっさと作るぞ!」
腕の中から逃れて、悠人は三羽目に取り掛かった。ちぇ、とわざと悠人に聞こえるように舌打ちしてから、私もさっき取り上げた赤い折り紙に手を伸ばした。どんな千羽鶴にも負けない、私たちだけの最強の千羽鶴を作るために。
それからの日々は、とにかく千羽鶴作りだった。二人で作ると、なんと一人当たり五百羽という膨大な数になる。一日で十羽作っても、五十日以上かかる。おまけに、悠人が途中から「パワーアップ」と題し、折る前に折り紙の裏面に何かを書くようになった。それは、「病気が治りますように」という七夕式のごく普通の願い事から、「おりゃー」という良くわからない奇声や、果てはアニメの絵など、とにかく、悠人が一羽あたりにかける時間は格段に増した。けれど、そうして時間をかけた分だけ、私たちの千羽鶴がどんどん強くなっていくようにも感じられ、くすぐったいおかしさとともに、私はそれをいちいち見つめていた。
悠人は相変わらず「悠人スペシャル」の折り方を続行するし、私はあくまで正しい千羽鶴の鶴を折るので、千羽鶴を入れた紙袋は、かなりちぐはぐな状態に仕上がっていった。ただ鶴を折るだけという単純な行為が、悠人と一緒だと驚くほど楽しい。また、鶴を一羽一羽折ることで、少しずつ私の心も強くなっているのだろう。悠人と、「一緒に退院をして、思いっきり遊ぶ」という約束を交わすこともできた。病状は依然悪いままで、そんなことはいつの日になるのかさえわからないし、そもそも「一緒に退院」ということ自体おかしな約束だとは思うけれど、とにかく、「まだ生きたい」という希望が、少しずつ私の中で芽生えてきたのは大きなことだと思う。
そんな、ようやく千羽鶴が半分ほど仕上がったであろうかというある日――
私の病状は急変した。
その日もいつものように、悠人が折り紙に「パワーアップ」を施しているのをクスリと笑って、自分の作業に移ろうかと次の折り紙に手を伸ばした。
その刹那、目を落とした手元が急に真っ暗になった。ほんの一瞬の暗転の後、私の目に飛び込んできたのは、赤黒い液体に塗れたシーツと、青色だったはずの真っ赤な折り紙。更に、喉の奥から大量の血流がこみ上げてくる。
悠人がすぐに人を呼び、その場は一命をとりとめた。しかし、その後の検査で示された数値は最悪のものだった。もう、いつ死んでもおかしくない状態。これだけ悪いと、素人の私にだってはっきりとそうわかる。
それからも度々発作を繰り返し、私は肉体的にも精神的にもギリギリにまで追い詰められていった。悠人とつまらないことで笑いながら鶴を折る楽しい時間を送る元気さえも、次第に失われていった。
私は死ぬ。悠人のお陰で忘れかけていたその現実を、改めて目の前に突きつけられた。寒気が、した。今まで想像していたよりも、死はずっと怖くて、得体の知れないものだったのだ。
だがそれ以上に、少しずつやつれていく私を心配する悠人の顔を見る度、胸の中の、普段は触れることもできないような一番奥のところが、ズキリと痛んだ。このまま死んでいく私を見て、悠人は何を感じるだろう。そのとき彼を襲うであろう絶望や悲しみを想像してみるだけで、私の目尻からは涙が溢れ、唇からは嗚咽が漏れた。顔を伏せる私を心配そうに覗き込む悠人の表情は、胸の痛みを一層掻き立てる。悠人といる間、私は本当に泣いてばかりだった。
それでも悠人は、私を励まそうと毎日病室に通った。自分が働きかけることが必ずしも良い結果を生むとは限らないことを知らない、あの純粋な瞳で一心に私を見つめてくる。
一時は私を救ったキラキラとした生へのベクトルは、今私が真っ直ぐに向かっている死へのベクトルと相まって、嫉妬や羨望が入り混じった、ドロドロとした暗い感情へと私を連れて行く。悠人を遺していってしまうかもしれない後ろめたさにも同時に襲われ、私の精神はこれ以上ないほど大きく揺らいだ。
そして私は遂に、
「もう、来ないで」
その日も両手一杯の折り紙を持ってやって来た悠人に向かって、そう吐いた。
悠人は自分の耳を疑ったのだろう。私を真っ直ぐに見つめて、完全に凍りついていた。
「君がいると、本当に鬱陶しくて仕方ないの」
これは嘘。
「大体、病院で遊びまわる感覚ってどうなの、それ?」
これも、嘘。
「私は治療に専念したいの。ちょっと『また来てね』って言ったら、調子に乗って毎日来て。嫌々相手してやってたの、わからない?」
嘘。絶対、絶対に嘘。
「だから、もう来ないで」
嘘。傍にいて――
どんな反論をされてもおかしくない。子供特有の無邪気さで、どんな風に私を傷つけても、その傷を全て受け入れてやる覚悟さえあったのだ。それだけの酷い言葉を私は吐いた。罵倒されて当たり前、たとえ鼓膜が破裂するまで殴られても当たり前だと思った。
それなのに。悠人はそのまましばらく黙り込んだ後、はにかんだような笑顔を浮かべて、
「そっか。わかった」
穏やかにそう言って、テーブルの上に広げようとしていた折り紙を片付け、最後に私の方をじっと見つめてたっぷり数秒後、それでもあっさりと私に背を向けた。
『待って』
『行かないで』
『今のは全部嘘だから』
そんな言葉が喉元までせりあがって、言えなくて。悠人を後ろから抱きしめたくて、ベッドから降りそうになる自分を必死に抑えて。ようやく戸がパタンと閉まる音を聞き届けるや否や、私の涙腺は一気に緩んだ。
断言する。その日、私は人生で最も多くの涙を流した。いくら泣いても泣き足りず、体中の水分を出しきったつもりでも、まだまだ足りない。初めて、涙は存外枯れないものなのだということも知った。
両親が病室にやって来ても、構わず泣いた。母が心配のあまり一緒になって泣き出しても、父が私を抱きすくめても、泣いた。泣いた。泣いた。
わかっている。私に泣く資格がないことも、泣くこと自体お門違いの話なのだということも。それでも止まらない。あらゆる感情が溶け出して、涙に混ざって流れていく。数時間もして、その大部分を占めている感情が何かに気付いた。
ずっとわかっていたこと。ずっとずっと、変わらずに思っていたこと。ずっとずっとずっと、決して手放すことのない大切な感情。
――悠人、あんたが愛しい。誰よりも、何よりも。本当に――愛しいよ。
そして、涙は枯れた。
悠人が来なくなって、二週間が過ぎた。
その頃には三日に一回は発作に襲われるようになって、医師にも遂に、余命一ヶ月と告げられた。宣告を受けたときは、ようやく死ねるのだと、昏い笑みを浮かべさえしたものだ。
両親は完全に憔悴しきっていた。申し訳ないとは思うけれど、こればっかりは仕方がない。ずっとわかっていたことではないかと、死に瀕している本人の方が、完全に冷めきった目で痩せた中年の男女を見つめていた。もう、あたたかな感情は全て、あの日涙に流れ出てしまった。
私は随分無口になった。悠人が来ていた頃は、母にも色々と悠人のことを話したものだったけれど、それも今はもうない。「最近、あの子来ないのね」と言われたことにもイライラして、短く「うん」と答えただけだった。
そう。あの日から悠人は、本当にただの一度も来なくなった。たまに検査で病室を出たときに彼の姿を見たことさえ、一度もない。悠人が私の要請に応えただけの話なのだけれど、薄情じゃないかと、見当違いに腹が立つ。
悠人は今もまだ一人、千羽鶴を折っているのだろうか。「悠人スペシャル」に、「パワーアップ」を施しながら。そんな姿を想像するだけで、思わず涙が出そうになる。でも、決して零れない。あの日枯れた涙は、今もなお枯渇しきったままで、いくら悲しくても、辛くても、涙が溢れることはない。気持ちの悪い嗚咽が漏れるだけである。
「一緒に退院しよう」という約束は、どうも果たせそうにない。
その日は、夕方から降り出した雨が、夜になっても止まずに強く降り続いていた。時折、遠くの方で雷が鳴っている。どうやら、台風が近づいているらしい。強い風が窓をがたがたと揺らす。
子供の頃の私は台風が来る度、何かが差し迫る予感にわくわくしたものだが、悠人はどうなのだろう。もし、今もまだ会っていたなら、台風について彼はどんな感想を漏らしただろうか。けれど、そんなことはもう知り得ることもない。私は彼を、拒絶してしまったのだから。
昼間に発作を起こし、その日の気分は憂鬱だった。発作が起きる度、ドタドタと音を立てて無遠慮に近づいてくる死をとても憎く感じた。もっと忍び足で近づくことだってできるはずなのに。悠人が育んだ生きる希望などとっくに消え失せていて、また、早く死にたい、と思うようになっていた。
消灯時間を過ぎ、部屋は暗闇に包まれた。窓が鳴る音ががたがたとうるさい。その夜は発作が起きた日の常で、なかなか寝入ることができずにいた。
こんこん。
数時間後、ようやく眠りの淵に辿り着いてうつらうつらとしているときに、何かを叩く湿っぽい音によって、私の意識は覚醒へと引き上げられた。
こんこん。
また。懐かしい感触の遠慮がちな、強い雨音にかき消されてしまいそうな小さな音。それは、入り口から聞こえて来ていた。時計を見やると、夜中の三時を過ぎている。こんな時間には回診も有り得ないだろう。
一瞬で、思考は一人の少年の存在に辿り着く。
「ゆう……と?」
ベッドから降り、ゆっくりと入り口に近づいて行って静かに戸を開けると、そこには青いパジャマに身を包んだ小さな男の子の姿があった。
「――お姉ちゃん」
瞬間、私はその小さな身体を力一杯に抱き締めていた。紛れもなく、悠人の身体、声、におい。私がずっと欲しがってやまなかった、悠人そのものだった。
いつもは抱きつくと嫌がる悠人が、そのときは少しも身じろぎせずに、私にされるがままになっていた。私を見る悠人の瞳は、私の感情を全て透かして見ているように落ち着いている。それでも、少しも嫌な感じはしなかったのだ。何を見られても、何を知られても。今なら、悠人になら、少しも構わなかった。
「あのな」
悠人が、私の胸の中で言う。
「俺、約束をなしにしようと思って来たんだ」
「約束……?」
「一緒に退院しようって、一緒に遊ぼうって、あれ」
心臓が跳ねた。
「どうせ、無理だろうからさ」
無理だ。無理だ、確かに。私はどう考えても助からない。一緒に遊ぼうという約束を守ろうとするならば、悠人は後追い自殺でもしなければならない。悠人にそんなことはさせたくないし、彼も――したくはないのだろう。だからこそ、約束を破棄しに来た。はっきりと、直接に言葉で。
「そっ……か」
わかってはいる。律儀な悠人が、諸々のことをはっきりさせようと思って、悪意なくここまで来たことくらい。それでも――
あんまりじゃないか。私が助からないことを念押しに来たような、そんなこと。他の誰よりも、悠人の口からは聞かされたくなかった。だって、そんなの――寒気がするくらい残酷じゃないか。
涙を流したくても、肝心なときには少しも零れない。ただ、いつものように嗚咽が漏れるだけ。悠人を抱きしめる腕に一層力をこめた。
これは罰なのか。自分勝手な都合で彼を切り捨てた、身勝手で傲慢で愚かな私に対する、許されざる罪の証なのか。だったら私には、これを拒絶する権利なんてきっとない。いや、あるわけが――ない。
「うん……わかった」
悠人は私が嗚咽混じりに頷くのを見届けると、腕からするりと抜けて、暗い廊下をぺたぺたと歩いていった。思いっきり抱き締めていたはずの私の腕には、実際には全く力がこもっていなかったのだ。
生きる意味はこれで、全てなくなった。わかってはいた、あのときから。私が悠人を突き放したあのとき、あの瞬間から、悠人は私の傍からいなくなってしまっていたのだ。わかってはいた。いたけれど――
――やっぱり、残酷だよ。
その晩眠れるはずもなく、私は聞こえてくる様々な音に、耳を澄ましていた。雨がアスファルトに弾ける音。雷が不機嫌そうにごろごろと鳴る音。誰かが勢い良くトイレを流す音。看護士さんが歩く硬い音。
四時を過ぎた辺りに、人の声で小児病棟の辺りが少し騒がしくなったが、一時間もすると、静かになった。
やがて、永遠に続くかと思われた夜が過ぎ、小鳥が小さく鳴く声が聞こえ、少しずつ日光が部屋の中を照らし出し始めた。小鳥のさえずるメロディの華麗さは、天上の音楽だって敵わない。キラキラとガラス窓を透かして差し込む光の美しさは、この世のどんな宝石だって敵わない。気分は最悪のはずなのに、私は生まれて初めて、朝を迎えることの美しさを感じていた。
そのまま一睡もしていない状態でベッドの上でボーっとしていると、突然知り合いの看護士さんが病室に駆け込んできて、真っ青な顔で私に告げた。
私は耳を疑った。いくら何でもタチの悪すぎる冗談だと思った。それでも、看護士さんがずっと神妙な面持ちを崩さないのを見て、どうやらそれが本当らしいと理解するに至った。
悠人が死んだ。
本当に信じられなかった。悠人は、私にとって死からかけ離れた存在だったのだ。いつも明るく笑っていて、つまらない冗談を飛ばしては私を笑わせる、「生」そのものだったのだから。
「悠人君は、生まれつき心臓に欠陥があってね。いつ発作が起きて死んでも全くおかしくない状態だったのよ。最近は安定していて、少しも発作はなかったけれど」
そうだ。悠人はこの病院に随分長いこと入院しているようではあった。けれど、悠人と一緒にいると、その明るさのせいで、彼が病人だということさえ忘れてしまう。だから、悠人が入院している理由について話したことなど、今までただの一度もなかったのだ。
私が、悠人が夜に訪ねて来たことを話すと、彼女は信じられないといった風に驚いた。
「だってあの子、その時間には発作の予兆が始まってたはずよ。ナースコールも押さずにここまで来たって言うの?」
悠人は、微塵も苦しそうな表情を見せていなかった。それでも彼は、わかっていたのだ。この発作で、自分がどうやら死ぬであろうことを。だから、私との約束を破棄しに来た。ここまで、発作で暴れ狂おうとする心臓をなだめすかしながら。
馬鹿な。では、もしここに来なかったら、悠人は助かったのではないか。私が、彼を殺したのではないか。しかし、そんな問いは、全くの無意味だった。悠人が死んだという事実は、どうしたって消えることはない。
私は、抜け殻になった。悠人を手放してしまった。気付けなかったことに対する喪失が、あまりにも多すぎたのだ。お腹が空いたという欲求も、生きたいという思いも、悠人が死んだことに対する悲しみさえ、抱けなくなっていた。だがその分、胸が痛む。悲しみではない感情で、胸のあの場所が張り裂けそうに痛む。それでも、涙を流すことはできない。枯れきった涙がこの痛みを代弁してくれることは、ない。
昨晩、失ったはずだと思っていた悠人は、あのとき実はすぐ傍にいたのだ。こうして、死という大きな壁に実際に隔てられて初めて、そのことに気付いた。死とは、まるで次元の違う距離に存在するものだったのだ。二度と会えない。あの小さくてあたたかな身体を抱き締めることは、二度と叶わない。
二度と、会えない。
翌日、悠人の御両親が私の病室を訪ねてきた。そのとき居合わせた母と軽く挨拶を交わしてから、こっちに向き直った。
この二人は、きっと私よりも辛い思いをしたのだろう。九年間育てた息子が死んでしまうというのは、どれだけの痛みなのだろうか。想像がつかない。今私が感じているこの痛みよりも強い苦痛が存在することを思い描くことなんて、絶対にできない。私はこの痛みだけでさえ、もう今にでも死んでしまいそうなのだから。
彼らは、私に大きな紙袋を差し出した。何かがぎっしり詰まっている様子のそれは、受け取ってみると存外軽い。
中を覗くと、そこには色とりどりの鶴たちがいた。赤、青、黄、橙、藍、紫、緑、桃、白、黒、金、銀――無数の色彩の中に、首を伸ばした鶴と、首を折り曲げたものが見てとれる。それだけでわかる。間違いなく、私たちが作った千羽鶴だ。
「悠人が、これを貴女に、って」
まだ若いであろう悠人の母親が、私にそう言った。目尻にはうっすらと涙が溜まっているのがわかる。
「九百九十九羽、だそうです」
目元が悠人に良く似た父親が、そう続ける。
私はそれに答えることもできずに、鶴たちの織り成す色彩の世界を覗き続けていた。するとその中に、まだ折られていない折り紙が入っているのを見つけた。紅白のそれを袋から摘み上げると、その裏面には既に「パワーアップ」が施されていた。
私はその文字を一心不乱に見つめた。やがて悠人のご両親が去り、母も仕事に行った後も、日が傾き始めた部屋のベッドの上で、なおもそれを見つめていた。
そこには、乱雑な字でこう書かれていたのだ。
『ついに千羽!これができたら、絶対にお姉ちゃんも元気になれる。だって、最強の千羽づるだし、前向いてるしな。そんで、元気になったお姉ちゃんと一緒に、思いっきりおにごっこがしたい。あちこち走り回って、汗だくになってさ。ま、絶対捕まらないけどね。
それと、神様へ。お姉ちゃんは苦しくても、生きたいってがんばってるんだぞ。そんなお姉ちゃんを連れてくな、バカ!狭いところにこんだけ書いたんだから、絶対かなえろ』
私はペンで一言付け加えてから、それを半分に折った。もう一度開いたとき、私の中に、悠人が死んでから初めての強い感情が芽生えていくのを感じた。
生きたい。私はまだ、生きていたいよ。君を天国で一人ぼっちにする罪悪感もあるけれど、まだもう少し待っていて。君が遺した、九百九十九羽の鶴と、最後の一枚が、私をここに縛り付けているから。
赤色の鮮やかな折り紙に、目を瞑っても折れるほどに身体に染み付いた手順で、少しずつ形を与えていく。一折一折、強く願って。
生きたい。生きたい。生きたい。
溢れてきた涙で、視界が曇る。零れた涙で紙がふやける。それでも構わず、私は手を動かし続ける。だってこれは最強の千羽鶴。こんなことではへこたれない。
仕上げに首を折り曲げて、「悠人スペシャル」の完成。掲げてみると、すっと前を見る姿勢が、何とも頼もしい。前を向いて、前進、だっけか。
私は前を見て歩いていく。だから、待っていて。私は生きる。そうして、私たちの願いを絶対に叶えてみせるから。
完成した最後の一羽を紙袋に入れ、天井に向かって思いっきりばら撒く。ベッドに寝転んで上を見上げると、星が降ってきたかのように、ひらひらと様々な色の鶴が、私の滲んだ視界を埋め尽くして舞い降りてきた。この中のどれか一羽に、私が施した唯一の、そして、とびっきりの「パワーアップ」がかかっているはずだ。
降りしきる星の下で目を閉じた。胸の痛みが溶け出したあたたかな涙が、つ、と頬を伝って落ちていく。真っ暗な世界の中で、鶴が着地するかさり、かさりという音が私の耳を優しくくすぐる。
最強の千羽鶴たちと一緒に、この世界で私は生きていく。もう少し休んでいていいよ。私はまだ、君の背中に追いつかないから。