雪のひとひら
小川 葉

 
 仙台は変わった、と人は言うけれど、私はそうは思わない。たしかに、形而下の変化はあるにしても、変わったとすれば、それは人が変わったのだ。街を歩けば、古い地元の店は、休日だというのにシャッターが下りてるし、それとは対照的に賑わう、中央から進出してきた店などを見てると、私はこの街が変わったのではなくて、人が変わったのだと思うより他はない。

 「ご存知のとおり、秋田の実家の店は潰れました。わかりきっていたことです。ものがあれば売れる時代があったのはたしかだけれども、そうはいかない時代も生きてるうちにやってくるということが、なぜわからなかったのでしょうか。などと、故郷を捨てた、自分がそんなことを言うのもなんですが。ここ仙台でも、ジャズフェスティバルやゴスペルフェスティバルなどで盛り上がっているようですが、あれは戦後ほろびてしまった日本文化の延長上にあるだけです。ほろびてしまったのに、延長しているということの矛盾が、あなたならわかるかもしれません。あの時、あなたと結婚すればよかった。それができなくて、ほろんでしまった私が今、その延長上で生きています。ありもしない希望を、乞食のようにあさりながら。」などと、私は故郷のあるひとに手紙に書いたのだが、誰にも言えずに思っていることを、伝えるべきひとに話すことで、伝えるほうも、伝えられるほうも、少しは楽になるものだということを、そのひとからの手紙の返事によって知った。

 週末、仕事の帰り道。いわゆる仙台の人が言う、そのもっとも変わったあたりを、ひとり徘徊することが習慣となっていた。仙台駅前に最近できた、パルコというファッションビルディングの入り口から入ってすぐ左方向に、ある雑貨屋がある。舶来の文具などを主に取り扱っており、私は何を買うでもなくそこに立ち寄っては、ペンの書き具合をたしかめてみたり、わかったようなふりをして、ノートブックの紙質をなでて確認し、うなずいてみたり、内心、これはきっと自分が買えるようなものではない、高価なものであると、びくびくしていると、意外にそれほどでもなく、そうしてボールペンや、メモ帳など、使いもしないのに、訪れるたび買うようになっていた。その店には、これは失礼なのかもしれないけれども、後姿はとても垢抜けていて、まるでパルコの店員みたいなのに、ふりむけば、どこか懐かしいような、田舎娘の風情を呈している、とでも言えば失礼にあたらないであろうか、とにかくそんな娘がいて、何度かその店を訪れるたびに、いつしか目が合えばおじぎしあうような仲になっていて、なんということはない、客と店員という、ただの仲であるのだが、ただならぬ親しさというべきか、昔の自分のことも知ってくれているような、たのもしさに面会しに、毎週末、その店を訪れているといっても、誇張ではなかった。

 ある週末、私はまた、買っても使うわけではない、その革製の文庫本カバーを広げたり閉じたりしていると、ふとどこからともなくその娘がやってきて、「ポール・ギャリコ、お好きなの?」と、唐突にたずねるので、とっさに私はその文庫本カバーに挟まってる見本の文庫本が、それだと合点した。「ポール・ギャリコはどうかな。新聞記者が書いた御伽噺だなんて。矛盾も甚だしいと思うがね。」娘は苦笑した。本当は、ポール・ギャリコなんて知らなかった。けれど、あながち的外れではなかったようだ。きっとアメリカ人作家に違いないと思ったのだ。じっさい、当たっていた。「そのカバーに挟まっているのは「ジェ二ィ」という本だけど、「雪のひとひら」という作品がおすすめですよ、男のひとはどう思うか知らないけれども。」そう言って娘はまた笑った。「ああ、あの分厚い本ね。このカバーには収まらないのではないかしら。」そう言うと、娘は「いいえ、やっぱりお読みになってないのね。お読みになったほうがいいですわ。あなたのような男性の方はとくに。」私はブックカバーを買って店を出た。仙台の街にはまだ、雪のひとひらはまだ降っていなかった。

 ある休日、「ちょっと散歩に行ってくる。」、いつもの調子で気軽に出かける。財布には、家の者がいつもの調子で、多すぎず少なすぎないほどの資金を、何も言わずに入れてくれる。けれども、その日は給料日前ということもあってか、いや、それにしては、というほどで、お金よりも暇がある私は、ある程度は慣れているのだが、それにしては驚いてしまった。
三百五十円。
しかしその程度の資金でも、私は休日の午後を存分に楽しめる自信があるのだ。まず古本屋へ行く。郊外の、寂れた街並みの、その本屋で、かならずポール・ギャリコが待ってくれている。案の定「雪のひとひら」が、百五円で、なおまた「ジェ二ィ」も百五円で、ちゃんと私を待ってくれていた。(「雪のひとひら」は、そのときはじめて知ったのだが、ページ数の薄い、はかない女のような本だった。)今日はどこか気持ちの良いカフェで、「雪のひとひら」を読もうと決めていたのだ。残り百四十円。しかたなく私は、マクドナルドの百二十円のコーヒーを飲むために、数キロ歩いて街まで出ることにした。

 街は変わっていない。はじめにそう書いたのだが、やはり街はなにひとつ変わっていなかった。「変わったのはひとよ。」故郷のあのひとの声が聞こえる。そんなふうに、彼女の声を、この街で聞いたことなんてなかった。やはり、人が、私が変わっただけなのだ。マクドナルドで私はブレンドコーヒーを注文する。と、すぐ後ろの自動ドアが開いて、つめたい空気が入り込む。ふりむけば、そこには懐かしいひとがいた。「小川さん?」「芙美子ちゃん?」二人して階段を昇る。二階の席の、外のアーケードが見えるカウンターに座る。「お店、どうなの?」「来てくれないんだもの。」芙美子ちゃんは美容院をひとりでやっていた。はじめて会ったのが三年くらい前だけど、その頃二十六歳だった。私は三十六歳の頃、職をうしなって、面接するために髪を整えに、芙美子ちゃんの美容院に行った。「あれからすぐに採用になってさ、芙美子ちゃんのおかげだね、すぐ忙しくなってさ、それからはもうあっというま・・・」言いかけて、芙美子ちゃんがうつむいてることに気がついた。「結婚するの。東京へ。」「じゃあ、お店は?」「父が亡くなったの。あの店も父の事業があったからこそ、できていたんだけれども、それにしてもひどい。大丈夫、心配しないでだなんて言ってたのに、あたしの店どころか、とんでもない借金をしていて・・・」

 この街は、なにひとつ変わっていない。そうして変わったのは、ひとなのだ。またそのような言葉が、脳裏を過ぎていった。「どうしてあの日、あんな約束したの?おぼえていないとでも言うの?」芙美子ちゃんは、泣いているようだった。「泣いてるの?」と、そんなとき尋ねてしまうのが、私の悪い癖だったけど、あきらかに泣いてしまっている彼女の前では、そんなことも言えやしなかった。「たしかにたくさんの、約束を僕はしてきてしまった。」そう言って、私は手紙を出した故郷のひとのことさえ思い出していた。約束なんて、いつだって気軽にできる。この街がいつもそうしてきたように、明日もまた会おうね、とさえ言えば、その約束は守られるのだ。そうしてある日、約束はやぶられる。それが早いか遅いか、その二つに一つの違いがあるだけなのだ。「東京とは、ずいぶん遠いね。」「ここで会えてよかったわよね。どうして会ってしまったんだろうね。」芙美子ちゃんはもう泣いてなかった。女とはやはり、このようなとき男よりはるかに強いのだ。「東京で、芙美子ちゃんと、芙美子ちゃんの子供と三人で、会ったなら、不思議な感じだろうね。」ふきだして、苦笑していた、こんな彼女の表情さえも、もう見ることはできないのだ。

 そう言えば、けっきょく「雪のひとひら」を、その休日にカフェで読むという目的は、はたせなかった。けれど、その「雪のひとひら」を、なんとなく、彼女にプレゼントして、そうして別れた。もうぜんぶ読んでしまったような気持ちになっていた。結婚することで、父がしてきた借金を、ないものにできるなら、芙美子ちゃんはずいぶん高い女だと思うしかなくて、安いプレゼントをしてしまったものだと、後悔していた。
この街は、なにも変わっていない。芙美子ちゃんも、故郷のひとも、私も。

 週末、パルコのれいの店に行くと、あの娘はもういなかった。店員に聞くと、結婚退社したのだと言う。女の人生は、それが幸せであればいいのだ。幸せにさえ、なればいいのだ。外に出ると、仙台の街にも、雪のひとひらが降っていて、降ってきたかと思うと、私の鼻の上に落ちて、そうしてとけて、消えていった。とても肌寒い夜なのに、なぜだかとてもあたたかい夜だった。
 


散文(批評随筆小説等) 雪のひとひら Copyright 小川 葉 2009-01-19 01:48:57
notebook Home 戻る