先の三連休を利用して、京都へ行ってきた。
写真家のmotokoさんから案内をいただいていた写真展「田園ドリーム」を見に。
滋賀で稲作に従事する若い人たちの姿、田や農家、街並み、滋賀で受け継がれてきた稲作と深くかかわる祭などが正方形フォーマットの写真となり、ならんでいた。
青い空バックに、赤い布がふりかざされる祭の一シーン。
稲ののびた田で、雑草刈りだろうか真夏に鎌をもって立つ農夫の姿。
どちらがハレでどちらがケかと、その両方の写真にうつくしさを感じた。
motokoさんとともに滋賀を再三訪れたライターの井上英樹さんはこう書いている。
「この場で日本の農業の問題点を論じるつもりも、民俗学の知識を継ぎはぎしてわかったようなことをいうつもりもない。
ただ、田んぼに通い若い農家と話をした1年だった。
(中略)
田植え後、無農薬の田は何とも頼りない。慣行農法と違って、苗の距離があり、苗の数も少ない。しかし、ひ弱にみえる苗は栄養たっぷりの土の中、日が経つにつれ、たくましく育つ。栄養満天の土は田の植物にとっても条件が良く、雑草も生えてくる。しかし、条件の良い田は土が軟らかい。石津さんの田で触らせてもらった土はとろとろの触感だった。稲は根を深く張り、とろとろの土でもすくすくと育つ。雑草は根を張ることができず、やがて浮き、枯れてしまう。(中略)石津さんは「田は一枚一枚違う」と言った。センチメンタルな言葉に聞こえてしまうかもしれないが、軟らかな土、粘りのある土、サラサラの土、硬い土。いろんな田んぼがあった。これまでの農法や人の入り方で、土の性質はそれぞれ違う。(後略)」
その石津さんのインタビューから以下抜粋してみる。
「大規模の慣行農業では仕事をしているのか米を作っているのかわからんと言う人がいる。まあ、サラリーマン的な米作りですね。農薬担当、肥料担当など分業化している。それが合理化なんですよね。」
(中略)
僕、米作りは文化だと思うんですよ。オーストラリアやアメリカは米価が下がれば、すぐやめますよ。彼らの米作りは文化じゃなくて商売なんですから。集落、人、土地あっての田んぼなんです。米作りだけでない田んぼには多面的な役割がある。環境保全、景観保全。小さなダムという人もいる。それらが全部あって田んぼなんですよね。企業が入ると利益を追求するために合理化が必要。そうすると、文化と縁が切れてしまう。僕だって村のしきたりとか、なんでこんなことやらなあかんねんって感じることもある。非合理的な作業もあるんですよね、実際。でも、僕はそれをするし、ただしているだけで良いんやなと思うこともある。それがなくなると、祭りなんかほぼ意味のないものになる。地主さんは田んぼ一枚一枚を先祖代々の土地と思っている。今の世代でもそう考えていますから」
農家の姿が、撮りたくて、motokoさんは滋賀へ何度も訪れ、あげくにヘリをチャーターしてまで滋賀の農村地帯を空撮したのだろう。しかも、数十年前に造られたローライTなんていうクラシックな二眼レフで。
動く人がいる。田で。
その人に動かされるように、写真家はカメラを担いで、ライターはメモをとりだして、おそらくそれぞれの気持ちのおもむくままに、滋賀の田園を写し取ってきたのだろう。
その写真と文に、また、動かされたい気持ちがじぶんのなかに植え付けられた気がする。いつ芽を出すのかはわからないけれど。
食のことを頭だけで考え直すのでは足りないのかもしれない。頭ではわかっているのだから──ごはんは大事だと。だれかが汗流して作ってくれているんだと。ひとりじめしてはいけないと。いのちがかかっているんだと。
いただきます、ごちそうさまと、ひとりで部屋で食べるときも言ったりしたことないだろうか。
そのときじぶんから出たこえのなかに、食のことがいっぱいつまってるんだと思う。
どっか近くにある田んぼでも畑でも、電車で通りがかる田畑の風景でもいい。京都の近所に住んでる人なら、この写真展でもいいと思う。
ちょっと行ってみてはどうだろう。さっきの飯と次の飯の合間にでもちょっと。
「田園ドリーム The Den-en Dream」
写真:motoko 文:井上英樹
2009年1月9日(金)〜2月1日(日)
shin-bi(京都)
A.M.11:00〜P.M.9:00
shin-bi(京都)
京都市下京区烏丸通四条下ル水銀屋町620番地 COCON烏丸 3F
http://www.shin-bi.jp/