クロスレット・シルバー  
いすず

路地裏の埃塗れの段ボール箱の山が毀れて、中身のがらくたがはみでながら折り重なっている。かびた敷物や、割れたガラス、すすけた卓袱台など、ひとそろいの生活道具は揃いそうなところだ。そのなかからがらくたをリヤカーに載せ、ホームレスのたむろする公園の、蒼のテントまでゆっくり運ぶのは十七、八に満たない千尋だ。冬でも素足で歩き、破れたジーンズは裾をまくっていて、半天もなく、上は一張羅のトレーナーひとつの寒くて痛ましいなりだ。
「ろうそく、あるか、坊」
もう体の自由が利かなくなりつつあるひげのおじいが、千尋のリヤカーをみていう。ポケットをまさぐって、マッチを外箱と中身三本だけわたすと、積んだ荷からろうそくのかけらを一本出した。いっしょに差し出す。
「火の元、気をつけろよ」
いくらかつつもうとするおじいに、千尋は、手で押し留めて首を横に振った。
そのままリヤカーの荷を担ぐ。
「いつも悪いの」
手をふりながら背をむけ、次のテントまで千尋は歩いていく。
日に稼ぎはすくなくとも、誰かの役には立っている。それを大切にしろよと、最後はホームレスでなくなった父も言っていた。食うだけの金さえあればいい、食うだけの稼ぎがあればいい。あとは、神様にまかせろ、と。
ぼろをきて、誰にもふりむかれない千尋でさえ、野の小鳥や百合を装う神の存在は、幼心にきかされて育ち、神のみこころにかなうように生きられるようさとされていた。そんな父がなくなってその冬の、クリスマス間近のとある土曜の午後、いつものように公園でおじいたちにがらくたを配り歩きながら、つかれた足を路傍の石で休めて一息入れていたときのことだった。

ビスクドールのように可愛らしい眼をした少女が、ひとりでベンチに腰掛けている。その眼は泣き腫らしたように紅かった。ないたまま、前を見据えてなみだをふこうともせず微動だにしないので、千尋は生きているのかと一瞬疑ったが、かのじょはしばらくしてわずかに、一、二度瞬きをした。
家出かもしれないし、けんかかもしれないけど、それにしてはいい服を着ているし、取り乱しているようでもないから、少しの間考えたあと、千尋はとっておきの薄汚れた指人形を出して、少女の傍に歩み寄った。そのつぶらな眼が、ふしぎそうに千尋を捉えて、じいっと見つめた。吸い込まれそうな眼だった。
「もしもし。なにかあったの」
お人形のかわいらしい首を振り、あかいほっぺに手をやりながら、元気な声で千尋はいった。
少女は黙っている。
「おとうさんとおかあさんは?」
まだ、黙っている。
「どうして、泣いているの?」
そういうと、少女は、わずかに、膝の上で伏せていた掌を開けた。ちいさな一匹のグレー毛並みのハムスターがこわばって死んでいた。
千尋はつぶれたテッシュの箱を出してきて、ぼろきれを敷き、ハムスターのなきがらをねかせて、どこかへ埋めないとね、といった。
「お庭は駄目なの。父と母が、」
かのじょがか細い声で、やっとそれだけいった。
「いいところを知っているよ。いっしょにおいで」
千尋はかのじょをうながして、リヤカーを曳きながら歩いた。外の風がひんやりとしていた。
しばらく街のなかをぬけて歩き、かれが夕餉にするさかなを釣る川べりへ出ると、葦の生えた川岸の土をそっと掘った。土は重くしめっていた。てごろな木切れをさがして埋めたあとに立て、ひざまずいて黙祷した。少女もこうべを垂れていた。
「ここへはいつも来るよ。だから、誰にも荒らさせない。安心しろ」
かのじょはこくりと、ただ眼を瞠ってうなずくのだった。


次の日、千尋が手に入った油をわずかのお金に代えてもらっていると、少女がやってきて、だまって傍に立った。
「坊、しばらく見んうちに色気づいたな。かのじょか」
おじいが髪をくしゃくしゃにしてなでた。
「そんなじゃないって」
油をわたすと、懐にわずかの重みが出来た。
いこうか、と眼でうながし、きのうの川べりへ出た。少女が、手にくるんだピーナツをもって、紙ごとお墓にお供えをした。
きれいな髪だった。背中までながれる黒の髪、耳の横でふたつ、濃いピンクのリボンを結わえている。うつむく首筋は白くて、おどろくほど細かった。
「この子はなんていうの?」
「ジョゼフィン」
「魂が、ちゃんと神に召されるといいね、ジョゼフィン」
少女が、抑揚のない声で、うん、といった。
それからたびたびふたりは落ち合った。
川べりまでくると、かのじょはたいていなにがしかの供物をささげ、おいのりをし、だまって千尋と肩をならべているのだった。

クリスマスのイヴまであと一日になったある日の夕暮れ、ふたりで川べりから戻ってくると、公園には少女によく似たひとりの若い女性が佇んでいた。
「羽鳥。ごめいわくをおかけしてすみませんとおあやまりなさい」
姉らしき女性は、少女を立たせていった。
「僕は、ただ案内していただけです」
「ジョゼフィンのお墓をつくっているところは、聞きました。羽鳥、この子がひとりではなしているのを聞いたの。この子は少しわけがあって、木々や金魚とか、自然のものにしか今は心を開かないでいるの。きみ、この子があまり話さないのを知っているでしょう?
羽鳥の病名は解離性障害といって、ふとしたことで心あらずになってしまうの。ひとりでね、傷をかかえている。誰にも、入れない痛みなの。でもね、だいじなのは、ひとりの人間として扱ってもらえることなの。きみ、ありがとうね。羽鳥も安心してしてたようだし、よかったけれど、でもね、もう、こんなふうにひとにたよっちゃだめよ。お姉ちゃんと帰ろうね」
「あの」
千尋は、ぼろのまま、薄汚れたほおをぬぐいながら、羽鳥に似て美しい、長い髪のきれいな顔の女性に向って話しかけていた。
「よかったら、墓守いっしょにしませんか。お姉さまにもきっとおがんでいただきたいって、彼女思ってると思うんです」
「そうなの、羽鳥?」
羽鳥がこっくんとする。
「だめといったじゃない」
「お姉さまがついてらっしゃれば、心強いし、羽鳥さんももっと安心できますし。僕、用心棒になりますから」
そうして、千尋はじぶんのさげていた銀のクルスを首からはずし、羽鳥の手に握らせてやった。羽鳥がぎゅっと握った。
「この子の気持ちが、よく分かるの?」
「よくは分からないけど、おなじだと思うんです」
姉のふしぎそうな眼に千尋がいうと、羽鳥がクルスをたいせつそうに首にかけ、千尋を見た。くちびるの動きだけで、ありがとう、と刻む。
「まだ、声が出せないのね」
ためいきのように姉が呟く。「だいじょうぶだから。それはお守りだよ」
そっと千尋が言うと、にこっと笑って、きゅっとクルスを握ると、羽鳥は駈けていってしまった。
「あの子のあんな笑顔、はじめて見たわ」
姉が呆れたように見送って、歩きながら言った。
「僕、千尋って言います」
「わたしはあの子の姉の美雪。近くのカフェでアルバイトをしているの。よかったら、うちに来ない?」
美雪がちょっと微笑んでささやくようにいった。「だいじょうぶ。あの子のたいせつなお友達を、歓迎しないようなお店じゃないから」

カフェ・オルフェは街外れの一角にあった。赤茶けた煉瓦の、ツタのあちこちに絡まった格子窓をはめた造りの喫茶店である。内装はきれいで、暖炉があたたかに燃えていた。羽鳥が手を翳しながら、待っていた。
「ここ、きみのおうち?」
「おじの家なの」
美雪が言った。
臙脂色のエプロンをしながら、美雪が立って行った。「羽鳥、なんにする?」
千尋はメニューを手に持って、羽鳥の前に差し出した。
細いひとさしゆびで、羽鳥がゆびさす。
「カフェオレです」
「きみはなんにする?」
「おなじもので」
「わたしがおごるわ」
美雪がお店のなかにはいって、あたためたミルクをエスプレッソに次いでマグカップに満たし、スティックシュガーを添えてカウンターのふたりの前にならべた。
羽鳥はカウンターのちいさなミニツリーのインテリアを気に入ったらしく、ひとりで撫でていた。心が休まるんだろうな、と千尋は見ていた。
だまって、湯気の立つ厨房の傍で無理に声をかけようとしずに、千尋は羽鳥を見守っていた。おない歳くらいの羽鳥は、かわいいものやいたいけなものに触れては語りかけるようなしぐさでときおりながめ、なにかをいいたそうにしては唇をとざすのだった。美雪はそのしぐさを知ってか知らずか無関心なように気付くそぶりさえ見せず、終始俯いている。微妙な温度差を千尋は感じるのだった。
「ごちそうさまでした。これ、すくないですけど」
千尋はその日のありったけの稼ぎを出して、美雪にわたした。
「いいのに。律儀なのね」
美雪は、出て行く千尋を見送りながら、呟くように言った。
「ねえ、千尋は神様を信じる?」
千尋はつよく頷き、扉をかたんと締めて出て行った。

イヴが訪れた。銀世界にはほど遠くても、今年はうっすらと雪化粧するくらいの、粉雪が降り積もった。千尋のリヤカーも、サンタのそりにみえなくもない。
おじいのところに寄った。おじいは寝ていた。
「おう、坊」
弱気な声で、千尋を見る。
そのまま、ごつごつした大きな大きな手で、千尋のほおをなでさする。
「おまえの未来はこれからだの。こんなところ、もう出てけばいいさ」
「じいはどうする?」
「わしは、もういつだっていいさ」
「弱気になるなよ、じい」
「すっかりたくましゅうなっての」
いとおしげになでながら、おじいが眼を細め、声を絞るようにする。
「ないてんのか、じい」
「年取るとなみだもろくなっての」
いかんの、とおじいは目を拭った。わしももう、ながくなかろうしの。
死ぬ前にひとついいこと教えようの。ひとはな、一人前になるときはな、
人前に恋するものじゃな。おまえはもう、恋を知ったな。あとは、ひとりで歩むことじゃな。自分がしっかり歩いていれば、神様は見ていてくださるさ。愛すということはな、つよいことじゃな。誰よりもつよいことじゃな。
「なあ、じい」
「なんじゃ」
「神は、いると思うか」
おじいはにっと笑った。
「おまえの心の中に、いるさ」
心の中さ、眼に見えるものじゃないのさ。そう笑って、おじいは眼を瞑った。血の気が引いていくようだった。千尋は傍で、手を取っていた。
おじいが息を吸い込み、そして、二度と吐かなくなった。千尋はむしろを懸けた。どこかで、街のジングルベルが鳴っているように聞こえた。

振り向くと、羽鳥が立っていた。
千尋はその冷えた手を取った。羽鳥はいやがらなかった。
「たいせつなもの、なくしたんだ、今」
ぼうぜんと立ち竦んで千尋が言うと、羽鳥のクルスがそっとゆれた。羽鳥が、おじいの垂れた腕を胸に組ませていた。
「羽鳥」
千尋が抱き締めた。羽鳥はあらがわなかった。千尋の眼からなみだがこぼれた。だれかに一緒にいてほしかった。父を見送ったときの悲しみが、こみ上げた。今は、こうして羽鳥のぬくもりのなかで、自分を埋めていたかった。我を忘れて、しゃくりあげた。羽鳥のゆびが、背中をなでていた。
千尋はすすり上げて羽鳥を見た。羽鳥は、わずかに微笑んでいた。天使のように、神々しい、そして、穢れのない笑みだった。

愛すということはつよいことじゃな。誰よりも、つよいことじゃな。

「あなたが、教えて呉れたの」
クルスのひもをゆびにはさみながら、眼を細めて、羽鳥はゆっくりいった。
「なにも、こわくなかった。ひとりじゃなかった。誰も、誰も、そんなふうに一緒にいてくれなかった。あたたかかった。さみしくなかった。つよくなれた。ひとりでは、できないことだった」
「僕も今ひとりじゃいられないよ」
羽鳥の胸にもう一度千尋は顔を埋めた。やわらかな匂いがした。羽鳥が、ささやくように告げた。
「たいせつなもの、うしなったの、おなじだったの。なくした思いを抱えて、どうしようもなくて。そんなとき、あなたがあらわれた。ジョゼフィンは、お兄ちゃんのペットだったの。お兄ちゃん、もう、いないの。あの、おじいさんのように、もう、帰ってこないの。だから、心が毀れてしまっていたの」
千尋が思い切り、そのあたまを抱えて、はがいじめにした。
羽鳥がふるえていた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんの婚約者だったの」
なみだがつたわった。羽鳥がないているのだった。しずかに。ひとりでふたりぶんのかなしみをかかえた羽鳥が、千尋の思いをかさねて、ないているのだった。
「お姉ちゃんは気丈で、いつもあかるいの。そのかなしみにふれたとき、なんだか、心が一瞬にしてはじけたようになって。今は分かるの。お姉ちゃんだってなきたかったのに、なけないのを知ったとき、わたしが一番つらかったんだって。なかないお姉ちゃんが悲しい、誰よりもしあわせなはずのお姉ちゃんといてほしかったお兄ちゃんをなくしたわたしが悲しいんだって」
とめどなくしずくはながれていた。羽鳥の髪を千尋は梳いた。さらさらのこぼれ落ちる黒髪が、ゆびのあいだをすりぬけていった。すすり泣きが聞こえた。
崩れ落ちそうな羽鳥を必死で抱きとめていると、羽鳥がささやくように言った。
「きっとね、あなたが今わたしを必要としてくれたから、今つよくいれるんだ。だから、きっとひとりじゃないと思えるんだ。ひとってみな、神さまの子なんでしょ? 昔、日曜学校でならったの。千尋もそう思う?」
千尋は羽鳥の黒髪に唇を押し当てた。羽鳥はなきそうになりながらじっとしていた。
「ひとは、神に似せてつくられたんだよ」
千尋は思いを込めて呟いた。
「じゃあ、お兄ちゃんも、ジョゼフィンも、おじいさんも、みんな、神さまに戻るんだね」
「きっとそうだよ」
羽鳥はあのときの、泣き腫らした眼をしていた。千尋は羽鳥の首のクルスを一緒に握らせた。ふくよかな手と自分の荒れた手を握り合わせると、なぜだか馬小屋のイエスを訪れた三賢人のことが思い出されるのだった。
今、僕に力をください。ひとをすくえる力を。ここで立ち直りつつある羽鳥を、どうぞ見守りください。
羽鳥がうすい目蓋を閉じていた。千尋は祈った。ゆびがふるえそうになった。寒さのせいではなかった。今、できることとしたら。
「羽鳥、一緒に祈ろう。ずっとずっとこの雪が深くなるまで」
羽鳥がうなずくのが見えた。
天使のようなひとみが、じっとなみだをこらえながら見ていた。
羽鳥が、自分の首のクルスの数珠をたぐって、主の祈りをとなえはじめた。
千尋は少しずつ、瞬きを繰り返す羽鳥の眼の輝きを見守っていた。
ひとは、自分の重荷をおろすとき、神様といっしょにいるのだよ。
なつかしい父の声がした。
そんなとき、その銀のクルスはおまえとともにいる。魂の導きで出会う友を、たいせつにしなければならないぞ。
いつもほがらかに笑っていた父。誰をもうらやまず、ねたまず、そねまず生きていた父。その父のひろい背を、もう一度千尋はまぼろしのように見つめた。父の背が、ただしずかに語っていた。だれかを自分が必要なときは、自分も必要とされていると思いなさい。それは父の口癖であり、教えでもあった。必要とされない思いなどないものだ。祈りなさい。そして、すべてのものごとは、運命だよ。千尋は消えていた、ろうそくのかけらに火を灯し、おじいの傍に立て掛けた。ろうそくはゆれながら勢いのある焔で因業のように燃えつづけていた。
ふたりは祈った。羽鳥はないていた。いつしか外は吹雪になりかけていた。
テントを出た羽鳥は、心なしか侘しげな眼をクルスに当てていた。カフェ・オルフェまで羽鳥を送ることにしながら、千尋はしきりにクルスをぬぐう羽鳥を見つめていた。
だいじそうにクルスを見つめながら、ここに紋章がある、と今はなきやんだ羽鳥がクルスの付け根をゆびさした。
クルスの丸くなった付け根の部分に、十字架の紋章が刻まれていた。
「クルスもひとりじゃなかったのね」
ほんの少し、声をくぐもらせながら、ひと呼吸してくくっと羽鳥が笑った。
「あ、今ないたカラスがもう笑った」
千尋の声に、羽鳥はもう一度あかるい笑い声をたてて笑った。   Fin

                                         
 
                                           



























散文(批評随筆小説等) クロスレット・シルバー   Copyright いすず 2009-01-13 01:38:39
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