ことばのさんすう・1・1
れつら


僕は元来多くの詩を覚えているほうではないが、「ひとつ」ということを考えるうえで、忘れられない詩がいくつかある。今回の論考ではこうした例を取りながら考えることも必要となるだろう。



りんご   山村暮鳥

両手をどんなに
大きく大きく
ひろげても
かかへきれないこの気持
林檎が一つ
日あたりにころがつてゐる



事物、に着目するならば、この短い詩のなかに明示されているのはたったふたつ「気持」と「林檎」である(無論「気持」を事物であると断言できるかと言われると、若干の留保がありはするのだが)。前段で論じたように、詩は1を孕むということを考慮に入れるならば、改行を挟んで真横に置かれた「気持」と「林檎」がいかに結ばれているか、ということがこの詩の最大の跳躍であると考えられる。

「気持」に至るまでの、それにかかる大きさの描写。
「林檎」にはじまる、それの置かれた状態の描写。

前者はその大きさを示し、「気持」の範囲を限定できない点で、拡散的である。対して後者は「日あたり」という環境に遊ぶ一個の転がりとして、全体の中の点を示す。


さて、ここで「気持」が事物であるか、である。
言うまでもなく「気持」は五感で感知し得ないものであり、語弊を恐れず言うならば、それは即ち概念である(シュレディンガーの猫がうんたらという話はひとまず置いてください)。概念はその質・量・様態の解釈が実に多岐に渡っている。単純に言い換えるならば、僕の考える「気持」の像と、あなたの考える「気持」の像は違う、ということだ。これが「林檎」であれば、ひとまず「林檎」を提出することは可能である。「これが林檎だよ」と教えることもできるであろう。しかし「気持」はそうではない。

(余談だが、恐るべきことに、と言わざるを得ないが、この手の単語は数多ある。そのうえ、五感で感知し得ない以上、いくらでもその虚の実態を仮定し、新しい単語を生成可能である。そしてそれが詩をつくることと密接に関わってくるが、これも後にまわす)

「気持」は、事物ではないかもしれない。
例えば、範囲かもしれない。すると結ばれ方は変化する。「気持」のなかに転がる個としての「林檎」。これが素直な解釈か否かは別として、その可能性は孕んでいる。1でありながら複数を孕む、ということは、例えばこういう現われかたをする。


ともあれ「林檎」は「一つ」である。
しかし、その前の「気持」と絡み合うことで、「林檎」を取り巻く風景はどこまでも広がりを見せる。「林檎」と「気持」を同一とみなすにせよ、「林檎」を取り巻く全体が「気持」であるにせよ、「気持」をあらわすために書き手によって広げられた範囲、その収束点として「一つ」の「林檎」がある。決定不可能な「気持」のかたちを、「林檎」の転がりは決定しないまま、しかし「林檎」は日の光を受けている。

「ひとつの詩」とは、例えばこういうことだ。




散文(批評随筆小説等) ことばのさんすう・1・1 Copyright れつら 2008-12-24 03:34:37
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