ことばのさんすう・序
れつら
これから書くのは、詩をつくる際に僕が行っているごくごく基本的な操作についてである。
何故そんなことを書こうと思ったのか、について、まず一義的な理由を述べるなら、スタジオイマイチの大脇理智氏に「谷君もなんか本出せばいいのに」と言われたからである。いや、もっとはっきり言うならば、それに対して僕自身が、「や、でも僕にはまだ書き残すような明確な方法論はないんで」と言ってしまったからである。
果たして本当に方法論はないのか?
いや、あるのだ。実際は。
今ざっと眺めるだけでも、現在のパソコンの中のpoetのフォルダには、200を超えるテキストファイルが存在している。更にそれとは別に、20近い上演台本として構成されたものがあり、記憶する限りでも30を超える随筆・エッセイの要請に答えてきた。明確にテキストを作品として考え始めてから約6年だから、他人に読まれるためのものを書くということに関して言うならば、それほど多いとは言えないのかもしれない。しかし、この単純計算でも250本のテキストを生産してきた中には、何らかの因果を持って言葉を支配するものがあり、それを意識的に、あるいは無意識的に使用してきた自分を、僕は知っている。
これから書き記すことが、いかほどの意義があるものか、というのは知れない。だが、チェルフィッチュの岡田利規氏はその演劇論の序文で、「方法論の体系化にもし意義があるとすれば、それは逃走する対象を明確に把握するため、それによりはっきりと逃走できるようにするため、にほかならないのではないか」と述べている。まさしく第一のこの文章の目的は、これである。ここから鮮やかに逃走するために、僕は書く。
あるいは、大変初歩的な、つまらない言説に堕するかもしれない。
しかし、使ってきたと自身が明瞭に言えるものを記していくことにする。この道は、もう二度と歩まぬ道になるかもしれないし、何度も往復せざるを得ない道になるかもしれない。それはまだわからない。
ただ、歩いた後がすなわち道になるわけではない、それだけはわかる。道として歩ける、そう思われたものこそが道なのだ。僕は、道草をするために、道を作ろうと思っている。
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ことばのさんすう草稿集