書くこと、まどろむこと、決めること
渡邉建志
書くという漢字には斜めの線がない。
書く、という言葉を聞くとき、わたしはどうしても、カクという金属的の響きを受け取ってしまう。引掻いて、削っていくこと。
曖昧な気分や感情を、紙に写していくのではなく、思考を掘り下げて、彫り上げて、最後の「書かれたもの」に辿りつくような、響きがする。
「エクリチュール」という、わたしのよく知らない言語の、単語をカタカナ表記で見かけるとき、わたしはわたしの日本語の連想のなかで、
「クリティーク」という外来語と、「カルチャー」という外来語を想起してしまい、前者は厳しい顔をして、
書くという名に値する行為の閾値を上げ、後者は鍬でもって、やはり厳しく辛抱強く削り起こすということを要求してくるように、思われる。
*
まだ存在していない音楽を聴き、まだ存在していない詩を読んで、曖昧模糊とした、でもとても素敵な感想を持ったような気分で、わたしは生きつづけている。
その感想のもとになったはずの作品のようなものを、わたしは遡って作ろうとするのだが、抱いた「感想」に見合うだけの作品を作れたことがない。
でも本来、創作活動とは、作られた後の副産物(富や名声なども含め)をきっかけに作られるものではないはずで、書かずにいられなくて書くとか、もっと、
自分の生きるという衝動に近い場所から湧き上がるはずではないかと思う。
わたしはきっと、母が夢を見ている間に生まれたのではないかしら、と思う。
後期ルドンや中期スクリャービンや後期武満を愛してしまうわたしは、そのことがなにか大きな過ちかもしれない、と思う。
ルドンは、最初からあの夢の世界を描けたのではないし、画業の最初にあの(1900年以降の)作品たちは現れ得なかっただろうと思う。
画業を始めるためには、夢のような曖昧なものではなく、もっと彼を駆り立てるテーマが彼には必要で、
それがあの不必要に思われるほど長いタイトルをもった黒い作品たちだったのだろう。
その衝動的熱情が醒め、でも描きためたことによって得た技術や経験をどこへ向けようと思ったときに、
この夢のような曖昧模糊とした美しい世界がたち現れてきたのではないだろうか。
武満が「リタニ」を「思い出しながら」書き直したとき、でもその和音は本当の初期の作品(「二つのレント」)よりは、
ずっと夢のような響きを持っていて、やっぱりそれは後期の彼にしかかけないものだっただろうし、最初からそのような夢を見ていては、
作曲家としての人生を前に進めなかったのではないのだろうか。
スクリャービンに、ショパンの書法の下でショパン的情熱に身を燃やしていたころがなければ、この世のものではない中期の曲たち、
ソナタ4番の1楽章や、詩曲op.32-1や、クアートル・モルソーop56-3や、プレリュードop31-1、op48-2が、それだけでぽろぽろと生まれ出ただろうか。
海のそこで、火山活動が起こって溶岩が流れ出ているうちに、そこからときに爽やかな泡立ちが生まれていくように。
わたしはその泡立ちだけをみて、夢見ている。
夢の生成。言い換え、いいよどみ、言いなおし、語りなおしていくうちに、その語られているようなものに対する、わたしの頭の中でのイメージが少しずつ変形していき、
最初に言われたときのイメージの残像とふしぎな共鳴をしながら複数の、無限の境界線をその周りに纏っていく。
ルドンがパステルを紙の上に何度も行き来させるときの、曖昧なライン。
あるいは、パステルの線を手や筆でぼやかしていくこと。
彼の花が海中に咲いているように見えたり、ふしぎな香りをまわりにまとっているように見えたり、すいこまれるような気持ちになったり
するのは、それが「これ」という名指しをしているのではなく、話し相手に「このようなもの」と伝えてあとは想像してみて、と言っているから
ではないかと思う。
中期スクリャービンが何度も言いよどむのも、また。
でも、断言をしないで、海の中のようであり、霧の中のようでもある、眠りながら起きているような、作品が存在するためには、
その作品を存在させるための実力
(なんという場違いな言葉をわたしは使わざるを得ないのだろう!)
をつけておかなければならないし、それこそがルドンの黒の時代にもスクリャービンの前期にも武満の前期にも共通する、
マグマのような欲求、衝動のようなものをつうじて得られた、モーメントなのだと思う。
初期に爆発的にまわりはじめた天体が、拡散していきながらだんだんと回転を遅くしていくのだけれど、
角運動量は保たれなければならないし、エントロピーは増大していかなければならないから、
この夢のような拡散とその回転の遅さは、かならず、最初の高密度での高速回転がないと得られないのだということ。
そしてこの過程は不可逆なのだということ。
ある作曲家が、夢のような「セレモニアル」を初期に書き、マグマのような「アステリズム」を後期に書くという生き様をたどることは、
きっと不可能であるに違いないということ。
(角運動量、エントロピー、というような言葉たちをこういう場所でつかうことは、不適切なことなのだろうか。わたしが思わず例を挙げてしまうのは、
論理的であろうとする態度ではなく、論理に見せかけた輸送、夢想なのだと思う、たぶん。
そのことについて批判したソーカルの本を読まなければならないと思いながら、でもそれ以前にソーカルが触れている人たちの本を読まなければならない
ために、でもそのためには大量のそれ以前の人たちの本を読まなければならないために、躊躇している。
というよりも、わたしは自分で悲しくなることに、読書行為に向いていない。読むのは遅いし、いつも途中で退屈する。
ただ読書行為や読書家たち、作家たちに憧れているだけなんだとおもう。それもまた、曖昧な夢。)
*
わたしは夢に憧れているだけで、エクリチュールという言葉の響きが要求してくるような、厳しい掘起しの作業を怠っている。
わたしが夢に憧れるのは、やっぱり、母が寝ているうちに産まれたからだろう、と思う。
わたしはひ弱で、どうしようもなく表現しなければならない衝動もなくて、でもいつも、
(存在していない)自分の音楽を聴いた後のような、自分の詩を読んだ後のような、もんわりとした感想だけを抱いている。
そこからは何もスタートしないのに。拡散しすぎていてしまって。
でも、わたしはその「感想」の水準、基準に到達しないような作品から作り始めなければならないという修行を、いつまでもはじめる気力がしないでいる。
でも、わたしはそのわたしだけが抱いている「感想」をほかの人にも抱いてもらえるように、その「感想」のソースとなった「作品」を作りたい、と思う、
けれども、それはやっぱり順番が違って、作品を作ると言う過程を始めずにはいられない気持ち、初期衝動的なものから、始まるべきなのに、
わたしにはその初期衝動がない。というか、自分の「感想」の基準に合格しそうな試作段階を踏みうるだけの初期衝動がない。
すこし衝動を感じた後で、作ってみても、結局つまらないものしか現れなくて、満足ができないし、才能がないんだと思う。
だからといって、他の才能を探してみる気力もない。その曖昧な「感想」の世界、「夢」の世界に耽溺している。
それが作れないんだったら、いやだ、いやだ、と駄々をこねている。
それを諦めて、他の、もっとプラクティカルな仕事への適性を考えるとか、どうしてもできない。
つまり、それは、もう生きる気がない、ということではないのか。
「自分の人生」を生きる気がない。ならばすぐ自殺するわけでもない。
くらげのように、その境界をゆらいでいるだけで。
マティスのヴァンスの教会のひかりのなかを、
シュトラウスの最後の四つの歌にみえるモントルーの湖のひかりのなかを。
14,5歳のときにマティスとシュトラウスの最後の作品をこの世の中で一番美しいものだと決め付けてしまった、その遠い世界に憧れてしまったわたしは、
そこへどうやって辿りつけばいいかわからないまま、(ヴァンスへ行っても、モントルーへ行っても、もちろんそれは見つからずに)
そのまま時間を止めている。14,5からわたしはわたしの人生を生きるという意味において、成長したとは思えない。
自分の生きる道を、自分の生の衝動から、内側の叫びから、(普通の言葉では)向いていることから、選んでいくという力。
*
それがない人間を産んでしまうことこそ、受験勉強の弊害だと思う。
人生で一番大切な15歳から18歳の時間を、わたしはただ、いい名前の大学に入れば何かが解決してくれるだろうと思っていた。馬鹿だった。
勉強に逃げていた。わたしは自分の人生を生きることから、怠けていた。
もしわたしのような人間が、くいっぱぐれて塾講師になるとして。
受験人生に巻き込まれたことをうらんでいる人間が、それをまた子どもたちに繰り返させるという構図。
それは悪の再生産そのもの。
わたしのようになるな、と言いながら。
「勉強よりも、自分で決める力の方が100倍は重要だね!」と友人が言ったことを忘れられないでいる。
いい大学にいけば、全部うまくいくんだって、信じていたし、信じ込まされるような空気がかつてはあった。
今もあるのかもしれない。
脳内によりよい形のシナプスとかネットワークとかそういったものを形成するために、系統だった学問を学ぶことは確かに必要で重要だとは思う。
訓練なしではきちんとした言語を書く能力はつかないだろうし、書きながら思考する能力もつかないだろうから、そういった訓練も必要だとは思う。
だけど、それは土台であって、目的じゃない。
15歳とか18歳とかそういう年齢は、たぶん、自分が何をしなくては生きていけないかという必然性に対する感受性が強い時期で、その時期に、
受験勉強を18時間強制する(しなくても、彼らに規範だと信じさせてしまう)ことが、よいことだとは思えない。
それに、論理エンジンを訓練するのと同様に、そういった自分で決める力と言うのもおそらく訓練が必要で、もしそれがある臨界期を持つ能力だとすれば、
どうするのか。
臨界期があるかどうかわからない。だけど、いまのわたしは、「わたしの決める力」っぽいもの<だけ>で決めたことに対して、その上に立っていることが
怖くて、死にそうで、世界が真っ暗になって、足元が不安定すぎて、正しいことをしているとは到底思えないで、むしろ不道徳なことを犯しているとしか
思えなくて、そんな選択は罪であるとしか思えなくて、だから、事実上、その「力」ぽいもの<だけ>で決めたことがなく、結局その力があるのかないのか
すら分からない、ただ、その力の上に片足を乗っけてみた結果、いつも目の前が暗くなって立ち眩みがして怖くて身体が震える、ということは、たぶん、
その上に立つ力が、ないということ、だと思う。
わたしは、いまだに、ローマの音楽院を訪ねた後で、Nとスペイン階段で座っていたときの会話を忘れられない。わたしは狂ったように怖い、と、暗い、を
繰り返していた。Nは、なぜ未来のこと、自分がやりたいことを選んだり、考えたりするのに、うきうきしないのか、楽しくないのか、理解できない、
わたしだって付いているのに、と言った。恐怖は、わたしがその夢をとりあえず延期することにするまで去らなかった(結局、諦めて他を探すと言う決断
すらできなかった。)
わたしが18歳までに学んだことは、「決断を遅らせる」という消極的な生き方だけだった。ディレイ・オプション。遅らせて、何とか、不安をやり過ごした。
だけれども、遅らせているうちに、自分が、そして周りが、肉体的にも精神的にも、年をとっていくことに徐々に気付いた。
でも、もう静止を、止められなかった。もう、すべてを始めるには、いつも、遅すぎた。無鉄砲に憧れながら、無鉄砲になり得なかった。
なぜなら、無鉄砲になるということは、習得しなければ出来ないことで、それはたぶん、臨界期があることだから。
おとなしく先生の言うことにしたがってきた子どもが、突然自分から新しいことを始められるわけもなく、
いじめられて、これ以上いじめられないためには、しずかで目立たないようにしなければと思って育った子どもが、突然自分から新しいことを始められるわけもなく、
わたしは自分の「したい」「やりたい」気持ちを常に罪に思いながら(それらを奨励して伸ばしてもらった記憶がない)、臨界期を過ぎてしまったように思われる。
でも、こんな人生を送りたいわけじゃない、と、うじうじ、ぐちぐち言いながら、自分はなにもできなくなってしまい、それを鬱という名前にカプセル化し、
あとは病人として、ほかの人にたかりながら生きていこう、とでもいうのか?
こんな出口のない思考を、もう何年続けているのか?
こうやって書けばなにかの糸口が見つかるかもしれない、と思いながら、いつまでも、いつまでも見つけられない。動くことからしか、始まらないのに。
踏み出すことからしか、始まらないのに。怖い。この怖さを。四本足で長年生きてきたわたしに、二本足のバランスで立つ怖さは、たぶん、もう、
克服できない。その能力は、もう、つかない。
いつだって、自分で決めるぐらいなら、死んだほうが楽だと思ったし、そのたびにまわりのせいに、人のせいにして生きてきて、自分の力だけで決めたことは
なくて、だから無鉄砲なこと、つまり、ほかの人からは見えない自分の生きるための衝動に任せて動いたことはなく、いうなればわたしは、自分を生きないで、
ただ生きてのびてきた。たくさんの可能性と、たくさんの能力の臨界期を失っていきながら。
可能なことしかできないし、可能なことはいつもスモール・ステップ。それに満足できないこともよく分かる。けれど、短期的な目標と、長期的な目的を、
バランスよく保って。その長期的な目的が、副産物の自己目的化になっていないかをいつも確かめて。本当にそれが生の衝動と重なるかを考えて。