誰もを好きでいなければいけないのか
ブライアン
目が覚める。手に握られていた、ゴミのような紙。領収書。宛名は空白だった。枕には涎が着いている。アルコールの匂いがする。カーテンから光が差す。胃に違和感があった。消化不良だろう。布団から起き上がる。水を飲む。歯を磨く。目を閉じる。不快だった。妻は既に仕事へ出かけた。部屋に一人、残されていた。部屋は散らかっていた。二日前から書きっぱなしで放置された書類、開きっぱなしのノート。読みかけの文庫。みな、目的を忘れられていた。顔に手を当てる。髭が伸びていた。鏡の前に立つ。髭を剃った。テレビの電源を入れる。時間と天気を確認した。今日は一日中晴れるらしい。朝のテレビは内閣の話をしている。興味が湧かなかった。興味の湧かない国で、生きていく。これからも。髪を整えながら、考えていた。この、興味のない国こそ生まれた国だった。母も、父もいる、国だった。インタビュアーに答える60代の男性。こんな国にしたやつはみんなやめちまえばいい、と言う。それを聞いて、正当な憤りですね、とコメンテーターは言った。正当なのだろうか。ネクタイを締める。手に握られていた領収書を財布の中へしまう。眠かった。胃の消化不良は消えない。働く人々は、どこまで権利を主張するのだろう。正当な権利を。ただ、生きていたいだけだった。風を受けて。冷たさを感じながら。
階段を下りる。革靴の音が響く。薄暗い、日の当たらない階段。冷たい空気に満ちている。マンションの管理人さんが、おはよう、と大きな声で笑った。答える。入り口の扉を開く。冷たい風が吹いた。排気ガスの混じった冬の風。朝の光は建物に反射している。緩やかな下り坂を歩く。誰もを好きにならなければいけないのだろうか、と思いながら。妻とお揃いのキーホルダーをポケットの中で握る。働く人々の権利。誰にも分からない、正当な権利のバランス。地下鉄の入り口に着く頃、妻は仕事場に着く。すれ違う人々。無表情だった。黙々と前進していた。改札を抜ける。電車はひっきりなしにやってくる。正当な権利を主張するため、財布を取り出す。領収書を破いてゴミ箱に捨てる。アルコールの匂いが口の中に充満していた。まだ、抜けていない。電車の扉が開く。押し込まれる身体。女性の身体と密着する。誰もを好きにならなければいけないのだろうか、と。例えば彼女のことを好きにならなければいけないのだろうか、と思う。彼女の手の感触が背中に伝わる。彼女は触れることを拒む。正当な権利。それでも、好きにならなければいけないのだろうか、と。隣の男性は鬱陶しそうに肩を動かす。自らのスペースを拡げようとする。正当な権利だろう。出来るだけ小さくなっても、無くなってしまうことは出来ない。彼女の拒む意志、彼のスペースの確保、それらを尊重しようとしても。好きにならなければならない、と。彼女や彼の希望に沿わなければいけない、と。
一つ目の駅に電車は着いた。扉が開く。人の波が押し出される。彼女や彼は人の波を掻き分けて歩く。誰のことも気にしなくては良いのだ、と言わんばかりに。電車の扉は閉まる。わずかにでも人と人の間にスペースが生まれる。電車は走り出す。本を取り出す。妻は会社で何を話しているのだろう。真っ暗な地下鉄のガラス窓に顔が映る。変わらない顔だった。カバーを裏返しにした本のページを開く。他人を気にしないで生きる、と言い切ったのは誰だっただろう。好きになる必要なんかない、とそういったのは誰だっただろう。文字を追った。文字の意味が溶けていく。コンクリートが闇に映っている。正当な権利だった。だが、何に対してだろう。乗換えをする駅。電車は止まる。扉が開く。電車から降りた。歩く。次の電車へ乗り継ぐために。仕事のことを考えていた。しなければいけないことを。コートを着た女性から冬の匂いがした。学生時代の思い出の匂いだった。イチョウの広場。女の子は香水をこぼした。彼女は付き合っていた友人から顔をそらした。寒い日だった。彼と彼女は別れた。二人は口を利かずに黙っていた。イチョウの広場にはイチョウの葉はなかった。みな落ちてしまった後だった。ベンチに座っていた。彼も彼女も俯いたままだった。二人とも何か考えていたのかもしれない。透き通るような青い空だった。けれど、二人には不必要だった。二人に必要だったのは、落ちた葉が腐れていく土の温かさだった。カラスが鳴いていた。
長いエスカレーターを上っている。コートの女性から流れる匂い。誰もを好きでいたかった。傷つけないためにだっただろうか。誰もを傷つけようとしていたのだろうか。風を受ける。冷たさを感じる。
それでもなお、