01:ふたりぼっち
chick
朝日がまぶしい窓際でタクミを撫でるのが毎朝の日課だった。
「久美ちゃん、もう、八時」
後ろから男の声が聞こえて、タクミは私の手をすり抜けてベッドの中にもぐりこんだ。茶色い背中を見送った後で、思わず声の主を睨みつける。
「仕事、行かないと。いつまでも猫を撫でてる場合じゃない」
広樹はそう言っていつまでも窓際から離れない私の頭を触れるように撫でた。
もう、八時。かれこれ二時間近くタクミを撫で続けていたらしい。ふわふわとした感触が手のひらに残ったままだった。
金曜日の夜から土曜日の朝にかけてだけ、広樹は私のものになる。土曜日は少しだけ朝が遅い。それは私が無能的な意味で早朝出勤する必要がなく、広樹が有能的な意味で早朝出勤する必要がないからだ。そして広樹の恋人―私と同期の彩夏という女は、有能的な意味で早朝出勤をする。だから金曜日の夜、広樹はここに来てくれるのだ。
「ほら、俺は先に出るぞ」
一緒に出る気なんてさらさらないくせに。一人でさっさと準備を済ますのだ。
「なー」
不服そうに声をあげた。
広樹は着替え始めてから一度も振り向かなかった。私に背を向けたまま最後の着替え、背広を羽織った。
きっとこの男は鈍感に違いない。センター試験の国語をやらせたら、「小説」の設問でお門違いの選択肢を選ぶタイプだ。そのくせ「説明文」の設問は全問正解しちゃうような、私のいちばん嫌いなタイプの男だ。
「なーっ」
抗議のつもりでもう一声あげた。
このかわいらしくない声にも慣れたのだろう、広樹は動じることなく、いってきますもなく玄関から出て行った。
「鈍感」
ドアの閉まる音を聞いてか、タクミがまだ手の中に滑り込んできた。
土曜日の朝、私はこうやって二つの背中を見届ける。逃げる背中、帰る背中。逃げる背中の方がかわいらしくて、帰る背中の方がちょっと切ない。
何で好きになってしまったんだろう。
広樹が帰るまで準備できないでいるのは、こうやって泣くためなのだ。
タクミを抱きしめる。広樹とは違う、やわらかいからだ。
いちばん鈍感なのは、これから会社に行って恋人同士の二人を横目に仕事をする自分ではないか。
泣き止むためにいつもする想像がある。それは(ありえないけれど)この部屋で広樹とタクミがふたりぼっちになるときのことだ。きっと二人は背中を向け合っていて、そのかわいらしい背中も切ない背中も知ることがないのだ。そこに私が入っていくと、とりあえず二人は私の方を向くのだ。ふたりぼっちの背中も顔も、私が独り占めする瞬間なのだ。タクミが逃げる瞬間のむっとする広樹の顔を彩夏が知るはずもない。
彩夏と広樹の奪い合いをするつもりはないが、私は彩夏の知らない広樹を知っている。
勢いをつけて立ち上がる。タクミがびっくりしてまたベッドの中に避難した。
私は、もう、大丈夫。
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朝日のあたる猫