傑作
これ若い人の詩だが
ワカランから
傑作なんだろうが
でもワカラン
ということがワカルから
大傑作とまでは
いかんのだろうよ
見ても見えんでも
ナンニモナイ
のが
大傑作だろうよ
な たぶん
(まどみちお『うふふ詩集』より)
満98歳のまどさんという詩人には、詩はどんなのに感じられているのだろう。
正岡子規や、貞久さんも、似たようなことをおっしゃっている。
とても似たようなことを言っている、とぼくに思えてならないことを。
それはおそらく、日本語のいいところをからだで感じるように、そこから生まれるように、
できてしまうものなんじゃないか。
やっぱり、そういうのがいいな、とつくづく思えてしまう。
「見ても見えんでも/ナンニモナイ/の」
を たぶん
〈追記〉
わかる、わからない、ということは詩にとって、どうしても大切なことだ、というほどではないと思っていて、むしろ、わかると思えてもまたわからない、わからないと思えても本当はどこかでわかってるのかもしれない、どっちなんだろう、なんなんだろう、と行っても行っても奥があるような、隣りの部屋があるような、脇道がみつかるような、そんなのがいいんじゃないかと思っている。
まどさんのことばも、そんなところをさしているのだろうか、いや、もっとなにかあるのじゃないか、と思えてくるからこれもまた詩なのだと思う。いいな。
(気になったので、もうひとこと付記)
※「これ若い人の詩だが/ワカランから」と言われるとぐさっとくることもあるけれど(まどさんから見たらほとんどの詩人は「若い」のですし)、そういうところはスルーで。
最近の若いモンは・・というのは古代エジプト時代からの常套句のようですが、この詩でいう「若い人の詩」も「ワカランから」も、それとはすこしちがう気がしています。「これ」と言っているように、なにか特定のものを読んで、ということでもあるでしょうし、その詩を特定しないながらも「これ」と詩行に残しているのは、「ぼくがたまたま目にした詩のことだよ」というニュアンスの留保のようにも感じます。