後書
八つか九つの頃、瞬きが気になり、ひとたび気になると、目を見
ひらいていたり、瞬きすぎたりして、ぎこちなくなるということが
あった。意識しなくなるとともに症状は消えたが、(中略)
意識されてはじめて体が体になるならば、体が体であることから放
たれるには、意識から放たれていなければならないということであ
ろうか。
詩は在るかないかはわからないけれど、詩であると思われるもの
をことばにしたものを「詩」と呼んでみるなら、詩であると思うと
きにはすでに意識が働いていて、詩であると思われるものを「詩」
にしてゆく作業にも意識が働いているから、詩が「詩」になってゆ
くには、二重の意識が働くことになり、「詩」は、二重に詩を隠し
ているともいえようか。
「詩」がたのしいのは、文字として固められた「詩」がぎこちない
瞬きと似ていながらも、「詩」にしてゆく作業自体は、「詩」になり
つつ詩へかえろうとする、背きあう運動としてあるからかもしれな
い。見ひらいたり、瞬きすぎたりしながら。
(貞久秀紀『リアル日和』後書より引用)
<詩であると思われるものをことばにしたものを「詩」と呼んでみるなら>と
ある。では、詩は何だろう。それは<在るかないかはわからないけれど>とある。
詩と「詩」。
詩を書いていて「あ、こういうの詩っぽいな」と思いながら書きそうになる。
書きそうになって書かないこともあれば、そのまま書くこともある。このときの
「詩っぽい」というのが、貞久さんのいう「詩」に近いものかもしれない。
その「詩」をめざそうとする気持ちと、そこから逸れようとする気持ち、両方
あるのは、じぶんがこれまで読んできて「ああいいな」と心を動かされた「詩」
なるものを書きたいという気持ちと、既存の「詩」でじぶんから生まれようとし
ている何かを表すのがいやだという気持ちの両方があるからだ。
「詩」だと思えるものからはみだした、これは詩なの?ちがうんじゃないの?
というもののほうがむしろ詩なんじゃないかと思ってきたけれど、この後書を読
んで、もっとその奥があるんだと知らされた。
「背きあう運動」ということばに出会ったとき。
「詩」を書こうとする動きと、ただ書きたいものを書きたい、書けたらと、そ
う願う動き(それが詩へかえろうとすることなのではと思う)とがそこにあるの
を、この後書がありありと示してくれた。
そのうえ、どちらの動きも、すなわち「詩」を求める気持ちと、詩を追いかけ
る気持ちという「背きあう」気持ちを、じぶんのなかに抱えていていいんだと教
えられた。
「詩」を書くことを避けたい避けたいと思っているじぶんがいて、それはこれ
からも変わらないだろうけれど、詩を書きたいと願いながら、「詩」にする作業
になってしまうことの、いわば分裂を「だめだめだ」と感じてしまうより、その
分裂のさまに詩を書くたのしみがあると捉えるのは、驚きであり、そしてそのこ
とにこころ励まされる。