底抜けの宙
白井明大
じぶんの詩のなんと吹けば飛ぶようなものなのだろうと思うのは、目のまえに起こり、去っていくものを書きとめながら、そこに、書き留めるということばの「留」めようとする杭を打つことをできない、とまで言えるかわからないけれど、書きとめることのなかにそうした留めようという意識が働かないでありたいとは思いながら、書くことをしているからか、とじぶんに問うと、そうと言いたくなるけれど、そのじぶんで思う理由と、実際のわけとは違うものなのだろう。
吹けば飛ぶようなほどのものをまた書き、また書きたくもあり、それは詩というののなかに入るのか、入っていますという既成事実をつくってあるからもう詩ですと、あたりも足もともぐらぐらであるのはいい、却って幸せなことだけれど、それを幸せととれずに不安でいてしまうとだめで、詩はいつもゼロから、詩かそうでないかあやしい境界あたりに、詩じゃないと思われるあたりに、生まれてこそのものと信じたく、そうしたあやうい、もろい、心もとない場所にあろうとすればいいのに、そうはできずに、じぶんの詩論とでもいうような、じつは底抜けのものを宙にしっかりとあるのだというように置き、そのうえで書くことをいましている。
吹けば飛ぶようなものを書くことに、それをおそれないで書いていければそれがいいとして、それを書こうとしても、おいそれと書き表せるものかどうかを試みていくのはどうなのだろう、するのだろうか。おそれないで、というものよりは、また疑いを持っている、底抜けのものの宙にあるような場所で書いているのか、じぶんのこうありたいという詩を信じることのなかの、こうありたいを本当かと疑い、書いてしまえると言ってしまうようなもう詩のありようがじぶんにとって身近にあることに、それでいいのかと、まずいように思う。では、と手が重く、けれど、おいそれとは放り出せない、そうしたものとしていま、いままでのじぶんの詩のありようと向き合っている、これは、これで、いいの?と。