詩は詩、書き手は書き手、なのかどうか
白井明大

詩こころと自我は関係あるのかないのかといったことが先頃、山田せばすちゃんさんとの話にのぼり、スレッド会議室で述べるには長文となりましたので、散文カテゴリに投稿することにいたします。

       *

>詩の主体と書き手の人格の一致という問題は、たとえば作中主体の人間性を批判した場合であるとか(ああかつてそういう批評書いて作者を烈火のごとく怒らせたこともありましたが)そういう分野の問題になるのでしょうか。
(山田せばすちゃん「廃人がポツリとつぶやく部屋9」438)
http://po-m.com/forum/thres.php?did=161269&did2=438

ということですが、そのように考えてはおりませんでした。

「詩は詩、書き手は書き手」と考えるかどうか、という意味で用いております。

「詩の主体」や「詩こころ」「自我」といったところから入りますと、そのことばの意味により話がすれちがってしまうかもしれず、この点、どのようにお考えなのかいくつかの散文を拝見いたしました。以下、引用いたします。


「作品=作者ではなく、しかも作品において作者と作中主体とはまったく無関係であり、さらに言うならば作者としての人格と実生活を営むものとしての人格すらも分けて考えるべきであることをかねがね主張してきた」
(同「どうせ私をだますなら」より)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=111705


「酷評されると落ち込んだり切れたりするのはなぜなんだろう?
そりゃあ誰だって自分の作品をけなされてそれがとてもうれしいというわけはないだろうけれど、」
「俺は作品を丸ごと否定したことは、悪いけれど死ぬほど記憶はあるのだけれど、作者の人格のすべてを丸ごと否定した記憶は一回もないんだよね」
(同「山田せばすちゃんショウ・・・何回目か忘れた(苦笑)「酷評の彼方に」」より)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=2513


「日本の伝統的短詩系文学である短歌や俳句にはそれでも少なからず技術の体系が存在するようだし、そういう意味ではあの結社というあり方も、師から弟子への技術伝承として働いていることも否めはすまい。添削という、あの独特の指導法だって、定型であると同時に技術が確固として存在するから成り立っているのではないかなどと考えるのだけれど、翻って現代詩といわれる口語自由詩だけが、技術の研鑽を怠っていいわけがないではないか。」
「俺は、技術論からの批評を目指すのだ。」
(同「誰か私たちの行いに何か正しい名前をください」より)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=627


上記のお考えをもとにして、ひもといていける部分があるのではと思い、以下に私見を述べます。

       *

口語自由詩における技術への評価は、書き手の書こうとする詩によって左右されるように思われます。定型詩と異なり、共通の土台を欠くため、ある詩において巧みな表現技術が、他の詩に用いられた場合にむしろマイナスとなるということもあるように思います。

そのため、書き手がどのような詩を書こうとしているか、つまり書き手の詩論(なにをもって詩とするか)をふまえて、その詩の技術の巧拙を述べるのが、ひとつの筋だろうと思っております。

口語自由詩に対する技術論からの批評というものの成り立ちにくさがあるように思う次第です。

ただ、こうしたことをご承知の上で尚、技術論からの批評を目指すとおっしゃることに敬意を抱きこそすれ、軽んじるつもりは全くありません。
吉本隆明が『詩人・評論家・作家のための言語論』のなかで、「指示表出」と「自己表出」とによって作品の評価はなしえると唱えたことを思います。

ひるがえって、読み手が自己の詩論や詩の技術論を確立し、これをもとに、詩の技術の巧拙を述べるということも可能でしょう。しかしそれを各論として、それぞれの詩に対して行っていった場合、起きるのは、たがいの詩論のぶつけあいです。技術の巧拙を判断する基準は、どこにあるのか。書き手が書こうとする詩と、読み手がよしとする詩のぶつかりあいということです。
それは技術論といいながらも、詩論そのものになるのではないでしょうか。

口語自由詩の技術とは、定型がなく共通の指針がないため、技術論にとどまりにくいということを確認しておきたく思います。

       *

山田せばすちゃんさんの思いとして、作者の人格を丸ごと否定するような気は毛頭ない、ということは了解されるところです。そのうえで時に読み手として、作品に対して否定的に述べることはある、ということかと存じます。

人格の否定うんぬんと言うといかにもものものしいですが、そうした抜き差しならないところにまで、時に詩をめぐるやりとりは行かざるをえないのかもしれません。

作品とは作者のものだけれども、作者そのものではない、というお考えがあればなおのこと、作品を否定するからといって、作者を否定するわけではないという思いがおありかと存じます。

主眼はどこにあるのでしょう。

「作品=作者ではなく、しかも作品において作者と作中主体とはまったく無関係であり、さらに言うならば作者としての人格と実生活を営むものとしての人格すらも分けて考えるべきである」

ここが気になったのですが、

◯作品=作者とはかぎらない
◯作品において作者と作中主体とはまったく無関係な場合がある
◯作者としての人格と実生活を営むものとしての人格とを分けることは可能だ

ということであれば、異議はありません。

が、これがつねにそうだと解していらっしゃるのであれば、この点が主眼ではないでしょうか。
(もちろん、ご自身の作品についての表明であれば問題はありませんが、他者の詩を読むうえでただちに前提にできるものかは疑問です)

作品=作者とする書き手はいますし、作品において作者と作中主体とが密接な関係をもつ作品があります。
また、作者としての人格と実生活を営むものとしての人格を同じくして詩作にのぞもうとする書き手もいることでしょう。

お考えが、作品=作者ということや、作者と作中主体の密接な関係などを容れないスタンスであるのかどうか。もしそうであるなら、作者とぶつかってしまうことはあることかと思います。

作品=作者かどうか、それはそうである場合もあり、そうでない場合もある、というものだと思います。
そこを越えて行こうとなさるのは、ご自身の詩論を書き手にも通用させようとすることでしょう。そのとき詩論の衝突を抜きにはできないでしょう。

       *

作品=作者かどうか、つまり「詩は詩、書き手は書き手」と考えるかどうかは、古くから詩論の争いのあったことのようです。

前掲の『戦争詩論』では、「詩は詩、書き手は書き手」という立場に立ったモダニズム詩が、「詩は詩、書き手は書き手」を突き詰めていった結果、書き手は書き手でありながら、詩は書き手の思想や感情と別個に成り立ち得るという手法ができあがり、その手法をよりどころに戦争詩が書かれるに至った、つまり、戦争詩とはモダニズム詩の完成形である、といったことが書かれていたと解しております。

この「詩は詩、書き手は書き手」と考えるかどうかという話は、けっして自明のことではないようです。

       *

詩と自我が深く関わり合いを持つ詩の書き手はいます。

そのことを批判なさるのであれば、その理由をお聞きしたいところです。


(付記)

作中主体のことが挙がっておりましたが、小説やドラマでいえば、登場人物といったことになるでしょうか。

小説を読み、ドラマを見ていて、この登場人物が好き、この登場人物は否定したい、ということがあるように、詩の作中主体に好悪の感情を抱いたり、否定の考えを表明することがただちに、詩の批評につながらないようには思います。

ただこの点も、私小説や事実に基づいたドラマなどがあることを考えると、<作品=作者>かどうか、といった面にふれてくるようにも思えてきます。

作中主体がかならずしも書き手であるとは限らない、というお考えであれば、異議はありません。


散文(批評随筆小説等) 詩は詩、書き手は書き手、なのかどうか Copyright 白井明大 2008-11-05 11:41:08
notebook Home 戻る