昨日は孤独な世界⑤
錯春

驚愕が飽和した視点について。



常にマスクをしている少女がいる。彼女は、カサついた頬を風にあおられながら、息を殺して川辺の茅の中に紛れている。
はじめは花粉症だった、が、気付けばもう長いことマスクをつけている。彼女が通う絵画塾のクラスメイト逹に、彼女のことを尋ねれば、「ああ、あのマスクの」と相づちを打たれるくらいに長く。
彼女の名前はキヌホ。
彼女は、口元に、言い表しがたいコンプレックスを持っていた。
骨の一部を露出して、粘膜をべろんと突き出せる場所なんて、他を探しても見当たらない。

(気味悪い。なんで皆へーきな顔してグロスや口紅を塗りたくれるん?なんで、粘膜をイビツにすぼませて、ゲラゲラゴロゴロゲラゲラゴロゴロ……)

思春期に等しく訪れる潔癖症に、キヌホは苛まれている。
彼女は、その瞬間に感じた不快感を不満として言葉に出すことはできたが、自分が果たして何に対して根元的な不満を感じているのかは、口に出すことができなかった(多くの少女は不満を持つ。それは時としてその衝動の激しさで少女自身をも燃やす)。
彼女は、あるひとつの、猛烈な意思を持って、呟く。

(私、今、誰のことも好きじゃない。きっと自分を好きじゃないから。なんて。あーぁ、あーぁ、何でこんなに寒い?何でここにいる?このまま風邪をひいて、肺炎おこして死んで、そしたら皆すぐに私のことを忘れる)

キヌホは破滅する自分を想像して、樮笑むことが好きだった。
今、彼女のマイブームは、「忘れ去られる自分」を想定すること。
(人は二度死ぬ、一度目は肉体的に、二度目は忘却されて)
使い古されたフレーズだったが、今の彼女の少女らしいレースで編まれた絶望には、おあつらえだった。

(キヌホは、行き場をなくして茅の中を歩いているうちに、なにかを踏みつけて立ち止まる)
(それは、グレーの色褪せたパーカーに包まれた、上腕骨)
(肉が消え失せたそれは、キヌホのスニーカー越しに、湿った温度を伝える)

そこにようやく、少年が到着する。
少年は、キヌホを彼(もしくは彼女だったもの)に会わせるために、彼女をここに呼び出したから。
少年は、足元の白っちゃけたカルシウムの塊に視線を落とすキヌホに、じっと目を凝らす。

キヌホは、考える。
(とっくの昔に、少年が背後に立っていることに気付いていた)

死体の持つ、ネガティブでパワフルなインスピレーション、そして衝撃。
死体との遭遇で、壊れてしまうことは、少女にとってふさわしい破滅かに思えた。

(だが、あらかじめ予測できた流れを自然と呼ぶならば、彼女が直面した事実は、破滅ではない。
希望、もしくは純粋な哀願。
しかし、それはあくまでも「ふさわしい」枠組みである。

そして、名前は必ずしもふさわしくある必要は無い。)

彼女は思う。

(人がどこでどうやって死ぬかなんて、よほどのことが無い限り、わかんないし。ここで偶然死んだとしても、それって全然自然だし。死んだら腐るのも自然だし。こうならない方がおかしいし)

そして、彼女は振り返る。
順当な流れで、少年(彼は絵画塾のクラスメイトで、今、この瞬間に初めて声を交わそうとする)と出会う。

(死よりも生よりも、不自然なことが始まろうとしている)

ねえ、キスとやらを、かましてみようか?

キヌホは微笑む。
踵に妙に軽薄な骨の堅さを感じながら。

彼女の微笑みは、マスクを通して少年に伝わる。



色褪せたシーツの上に、ケイタは大の字で寝転んでいた。
女の子は、30分前に帰ってしまった。

(カラオケ付きとか言われても、今更1人で歌うのもなー)

ケイタはうんざりしていた。
なんで自分は女の子に優しくできないんだろう。
もとい、なんで女の子に触りたくないんだろう。

(めんちいのよね、いちいちキスしたりおっぱいしゃぶったり。されるのは平気なんだけど)

彼は優しくないわけではない。ただ、女の子に「アンタって優しくない」といつも言われるので、自分のことを誤解しているだけ。
だが、彼に責任はない。元より、愛していない相手に、触れと言う方が無茶な話なのだ。
(女の子の方も、勿論それを理解していないわけではない。ただ、行動について、常に明確な理由を求めることが、女の子には多いだけだ。たとえそれが虚偽だとしても)

ケイタは枕元に転がったコンドームを手に取る。
中にはまだ暖かい精液がたぷたぷ揺れていた。
彼はのそりと起き上がり、ジャグジーバスへと歩み寄る。

(しなくていいならしないのがいいよ。ほんと。俺はwiiとか、PS3とか、X-BOXとか、そーゆーのをしたいの)

コンドームを蛇口にくくりつけて、ゆっくりと水道を捻る。

ケイタは、女の子逹に対して、申し訳なく思った。
自分がいつも悪者にされるのは、自分がペニスという凶器を持っているからなのか。
では、膣は罠に他ならないのではなかろうか。
そんなことを考えないでも無かったが、今では顔も忘れてしまった女の子逹を呪うには、彼はあまりに優しすぎた。

コンドームが水を飲み込み、大きな滴型になって、蛇口に垂れ下がる。

(でもね、おねーちゃん逹。俺、アンタ逹とやったこと、忘れてあげないよ)

忘れないということは
思い出してあげないということ。

ケイタは膨らんでいくコンドームを眺めながら、裸のペニスを撫でる。
肛門が少し痒かったので(興奮した女の子がべちゃべちゃ舐めたことが原因か)、裸なのを良いことに、ジャグジーバスに身体を沈めた。

目の前でコンドームはどんどん膨らんでいく。
なにかを孕むかのように。

ケイタは大切なことだけ、忘れることにしていた。
それは授業参観のときに珍しく白粉をはたいた母親の顔だったり、やたら「ごめんね」を繰り返しながら処女をくれた同級生だったりした。

(あー、俺もはやいとこ「初恋?そんなこたぁ忘れたな」とか、ほざける男になってみたいでちゅ。なんちて)

彼の当面の目標は初恋を忘れること。
きっとそれは、思い出した際に、甘美な痛みを与えてくれるだろう。
だが、それもすべては憶測。
だって彼は恋をしていない。

(不意にコンドームの皮膜が限界値を越える。破裂した水と精液は瞬時に飛散して、狂暴な霧になる)

いひゃしゃひゃしゃひゃ!!

ケイタは思い切り笑ってみた。
ここは笑うところかな?と思ったからだ。
(だがそれに応える者はいない)
彼はたまに、こうして無理をする。
孤独であるときに、そんなことをする必要は無いのに。

ジャグジーの泡の中で回転するゴムの脱け殻を見つめながら、彼は夕食を誰と食べるか考える。

(焼き肉、そーだ七輪焼き肉食べに行こ。どーせあいつのことだから、きっとヒマしてるに決まってる。何だかグロッキーだから、とびきり楽しく肉を焼こう。
ところで、精液風呂ってお肌に良いの?)

ケイタは風呂から上がって、早々に部屋を出る準備をする。
こんなとき、俺のことを「お前サイテーだな」って言ってくれる友人がいて良かった。

(俺が悪くて、そーゆーことにしとくのが一番いいんです)

それは自己犠牲の精神。
神様には嘲笑されるかもしれないが。
彼はその精神のおかげで、今日も誰も呪わずに、眠ることができる。

腹の虫が鳴る。

ケイタは、これで空腹という調味料を手に入れて、満足に焼き肉を食べれることを確信する。

(それでいーじゃん?充分じゃん?)



散文(批評随筆小説等) 昨日は孤独な世界⑤ Copyright 錯春 2008-10-31 01:28:37
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