昨日は孤独な世界④
錯春

倒錯する渇望の交差する点のみを見据える視点について。



醜く醜く醜くあるように。
美しく美しく美しくあるように。
それらはとても似ている。ミナは実際にそのどちらの欲望も持っていた。彼女の生まれ着いての情緒不安定さが、夜布団に潜り込む前に、決まってそれらの呪文を唱えさせる。

(明日は今日より醜くあるように)

夜の暗さがミナを自虐的な方向へ押しやるのではない。夜になると、暗さに紛れて地べたにベトベトと癒着していく若者(またはその若者達の汚れた爪の垢、また、露骨なスケベ心)が、彼女の敏感な神経を削りたてて、それらの呪文を唱えさせる。
ミナの姿を文章に比喩させようとしたとき、大概の人々は彼女の髪型や服装から、彼女を切り取ることを始める。
彼女は、特に特徴のない、問題のない、いわば普通の(彼女は嫌がるであろうが、彼女は彼女の最も嫌がる若者達と大差ない)顔を持っているからだ。
彼女は己の容姿の平凡さを呪うわけではない。
彼女が願うのは、自分がこれ以上くだらないこと、容姿や恋愛沙汰に囚われないことを願って、それらの呪文を唇の内側で反芻する(なぜなら彼女は、失恋したばかりだったから)。

(明日目覚めたら、ランコムのパックでも半身浴でも、RMKのファンデーションでもどうしようも出来ないくらいに、私の顔が崩れていますように。具体的には、ぱんぱんにまぶたが腫れたり、にきびが一面に出来たり、真っ黒いクマが染み付いていますように)

ミナは自分の顔が、その平坦さ故に、どうとでも変化することを自覚していた。
自分が一昨日カフェテリアの隅っこで恋人に振られたその瞬間、自分が陶酔してきた数々のことがすべて道端の虫の屍骸以下にどうでも良いことのように思われた。そしてそのとき思ったのだ。
「もう二度とこんな浅はかなことに巻き込まれるのはゴメンだわ」
そして、それらの煩わしいことに取り込まれる原因が、一概に自分の容姿の平凡さにあることに気づいた。
人は同じような人としか、触れ合うことが出来ない。
平凡な容姿であり続けることは、おのずと多くの平凡な方々に取り込まれやすいということでもあった。
ミナは日本人らしい考え方で、夜眠る前に呪文を唱える。

(もうあんな人達に弄ばれるのも、相手にするのもまっぴら。蔑むことすら馬鹿馬鹿しい。あーうん、でも、私がもの凄く綺麗か、もの凄く醜いか、そのどちらかだったら、なんらかの運命の相手とやらと、出会いやすくなるかも。どうせ綺麗になんかなれっこないから、この際醜くあろう。落ちることは簡単だものね)

ミナは、運命と極端さを混同していた。
彼女は自分で自分を納得させて、また息を吸い込む(何度も呪文を唱えるために)。

(醜く、醜く、醜く、あるように)

(そして願わくば、そんな醜い私に、唯一無二の運命の救世主があらわれますように)

ミナは姑息にも、神様すらだまそうとしていた。
でも、彼女は重大なことに気づいていない。
救世主は、自ら墜落した雛鳥を、その手で救い上げることはない。
そしてもう一つ。
美しさは特別である。
ミナはそれは痛いほど理解していた。そして自分の平凡な容姿がその特別さを得られないことを(そもそも思想の段階からスタートしない時点で、その美醜はまがい物である)。
そう、そこで、

醜さもまた赦されたもの達だけが持ちうることである。



タマトは自分が約●千分の一の確率で存在する代物だということを、早々に理解していた。
どこぞの偉い心理学者の方が仰ることには、
「幼少時、母の裸を見てペニスが存在しないことを知り、トラウマになる為、男性はフェチシズムを持ちやすい。女性は逆に母を見て同体とみなし、故にフェチ癖等は希薄になりやすい」
のだそうだ。
理論として、その意味は全くわからなかったが、彼は自分が何者にも焦がれたことが無いのは、なるほど、そこに要因があるのだ、と素直に思った。
タマトは、もう十七歳になるのに、自慰をしたことがない。
物理的な刺激以外で、快感を得たことがないのだ。
タマトは、女性ではない。
彼は、股間にペニスと膣、その両方を持ちうる存在だった。

(欠損、去勢を恐れる精神が、その病的な固執、フェチシスムを生み出すとしたら、僕はどちらも得ているから、恐れるとか、そういうの、感じないのかもな)

タマトは貧弱な胸を摩りながら、そっと向かいのアパートを見上げる。(向かいのアパートには、タマトと同じくらいの若者が多数住んでおり、時折、セックスに勤しむ裸の尻が窓から見えたりした)。
タマトは己の身体のことを、あまり深く考えない。考えれば考えるほど、安っぽいナルチシズムに食い荒らされる気がしたからだ。
タマトは、自らのペニスを扱きながら、カレンダーの日にちを数える。次の生理が来るまで、あと数日だった。

(僕は一生セックスなんて出来ないのかもしれない。多分、僕が僕の裸を見たら、ドン引きするし。いや、僕が僕を見ても変わりないか。僕が女か男で、女でも男でもない僕を見たら……やっぱりドン引きするよな)

タマトは自分のことを決して「男でも女でもある」とは考えなかった。
「男」だの「女」だのといった概念は、なんらかの欠損によって成り立つものであるからだ。
どちらも得ていることは、どちらも得られないことと一緒だった。

(タマトは自らのペニスの下にある膣が、自慰の刺激によって少し潤んでくるのを感じる)

向かいのアパートのベランダに、いつの間にか半裸の男の子が座り込んでいる。
タマトはぼんやりと、視力の弱い瞳でその男の子を見つめる。
男の子の肌は自分と同じくらいに白く、滑らかそうだった。

(アイツはきっとセックスしたことあるんだろうな。羨ましいな)

素直な羨望の感想を述べて、タマトは自分をいじくる指の動きを早める。コスプレ、陰毛、肉体改造、獣姦といったフェチシズムが存在しない彼にとって、セックスにおける劣等感がもたらす羞恥心が、自慰の一番のオカズだった。

(明日、ゴミだしのとき、もし誰かに声を掛けられたら、そいつとセックスをしてやろう。それが男だったら、僕が膣口を、それが女だったら、僕がちんちんを使えばいいことだ。うん。あー。だめだめ。イキそう)

タマトは放出の快感に身体を痙攣させる。
いつの間にか、向かいのアパートの男の子の姿は消えていた(ちょうど昼時だから、カルボナーラでも食べに行ったのだろう)。
彼は涙をたたえた瞳で、手のひらの精子を見る。
彼は決して浅はかではない。
性行為は常に涙と共に存在する。

(……なーんてね、そんなこと、あるわけない)

そして、発射後の冷静な頭で、数分前の自分の誓いをあざ笑う。
しかし、彼は聡明である。
性別がなんらかの欠損を元に形作られること。
そして、性別にはもう一つ、その存在の立証の方法が存在する。
それは自分が欲する他者の為に、自分の性の役割を認識すること。
彼の自慰行為の最中に咄嗟に思った妄想は、それを暗示しているものに他ならない。

(タマトは、ペニスの処理を終えたあと、トイレへと立ち上がる。
濡れた膣を、ビデで洗浄するためだ)

果たして、彼は明日、いつものようにゴミだしをする。
そしてそこに誰が待っているのか。
それとも、誰にも遭遇し得ないのか。
どちらでも構わない。
そのどちらにしても、彼にとって、自分の性器から逃れられる期間なぞ、限られているのだ。


散文(批評随筆小説等) 昨日は孤独な世界④ Copyright 錯春 2008-10-30 01:26:36縦
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