昨日は孤独な世界③
錯春

緩慢な衝動を抑制する際に生じる痙攣的な視点について。



何度呼び鈴を鳴らしても、つい数時間前まで恋人だったはずの人間が電話に出ることはなかった。
ミカヨはうんざりしていた。
身体中から魚を炙ったような臭いがしている気がしたからだ(実際には、それは魚ではなく紛れもない人間の体液から発する臭いだった)
世の中には、何種類か人間がいる。
ニキビができやすい、とか。痔になりやすい、とか。やたら愚痴をこぼされる、とか。陰口を言われている場にうっかり遭遇、とか。妊娠しやすい、とか。あと、何か色々諸々。
ミカヨは、輪されやすかった。
直接的な言葉を使えば、彼女は今回でレイプ経験が三回目だった。

(……普段はしらんふりしてるのに、こういうときだけカチカチになって、最悪っす)

それは彼女が人並みに愛らしかったことと、包容力が有りそうに見えることにあった。
ミカヨは決してアバズレではなかったし、ビッチでもなかったが、少しだけ雰囲気が緩かった(事実、彼女を散々楽しんだ輩は、レイプ犯であると同時に、親しい男友達でもあった)
彼女は自らに原因があることにうすうす勘づいているが、それを呟いたりはしない。
(だって、口に出したら、音になって自分の鼓膜に届いたりしたら、みんな事実になっちゃう気がして恐いじゃん)
そう、どんなに分かりきっていることでも。
自分がそっぽを向いていれば乗りきれることを、知っていた。
ミカヨは携帯を放り出して、エビアンのペットボトルを口につける(それは彼女の顔に精液をぶちまけた男の子が、全部終えた後に、やっとのことで思い出した優しさで与えてくれたものだった)

(なーにが三人も相手にして疲れたでしょ、ごめーんね、だ。一回くらいならやってもいいと思ってたけど、今回のことで金輪際ヤらないって決めたからな)

ミカヨはボタボタ涙をこぼした。泣くのは楽しい。泣くのは疲れるけど、身体がしんどいときは、きちんと涙を流さなくては駄目だ。精神がしんどいときは、ただ痛み入ればいいだけでとってもお手軽だけど、身体に起こった痛みは、身体を通して処理をして然るべき。
よく、はき違えて発散している人を見掛けるけど、それってものすごく不健全。

(でも、こんなんでも半年後にはまた次の片思いとやらをちゃっかりエンジョイしてたりすんの。げんきんだなーあたし)

ミカヨは、何人もの雄に交互にペニスを突っ込まれたことを、動物に置き換えて考えてみる。
繁殖期の猿や鳥は、何匹ものパートナーをとっかえひっかえらしいけど、その猿や鳥逹はいちいち名前を呼び合ったりはしないし、時間差で突っ込まれたからと言って、錯乱して弁護士に電話したりしないだろう。
いちいち、生殖にこだわりすぎるから、いらぬことまで悲劇に仕立てあげてしまうのだ、と(だが、彼女は人間が個々を判別するべく名前という薄皮な個性を用い出した瞬間に、同時に自分だけの悲劇をも欲したことを知らない)

ミカヨはもう恋人の名前を忘れていた。
彼女の恋人は、彼女を自らの完全な所有物とするために、友人らに彼女の身体を提供することを許可したのだ(もちろんそんなことを彼女は知らない)。
それによって彼女が永遠に離脱してしまうことも予測できないほど、恋をしていた。
または、悲劇的な自分を夢見ていた。

(会いたい会いたい今すぐ会いたい。胸の底からほどけていって、息すら止まってしまうような、あの人に会いたい。

でも、いったい誰に?)

彼女は見当もつかない。
(仮に思い出せたとしても、それは彼の植物の茎のような骨、また臭いを感じさせない無機質な肌)
彼女は、自覚していないだけで、ずっと煉獄のような恋をしていたのに。
(思い出せないのに、変なの。ナンセンスだっちゅーの)

ミカヨはティッシュペーパーで鼻を噛む。風呂に入らなければ。もう冬なのだから、裸のままではいられない。
そして、彼女はバスタブにお湯を溜めきる前に、この恋をまた忘れてしまう。
そう、いつだって。
大切なことは、一番始めに忘れてしまうのだ。

だけど心配する必要は無い。

真に大切にするってことと、近づかないのは、何が違う?



鉄棒で足掛け前回りの練習をしている、中学生が独り。ケイシは運動が嫌いだ。だが、体育のテストで馬鹿にされるのはもっと嫌いだったので、必死に練習をしていた。
確実に失敗をしないと確信できるまで、あともう少し練習した方が良さそうだ。
ケイシは、その年頃の中学生がそうであるように、ある種の病的な、または荘厳なる精神を持って、ひとりぼっちでグラウンドにいた。
ざわざわ鳴るのは、ケヤキの樹か、それとも、土手を隔てて広がっている茅の群れか。
ケイシは、ため息をついて、鉄棒の上に腰かける。

(桜の木の下には、死体が埋まっているていうけど、地球上に生命が存在してから、死体が転がらなかった場所なんてあるの?)

ケイシの妄想は、口に出すのも恥ずかしいくらいに、甘口なロマンティックさを持っているように思える。
だが、彼は実際に死体を見たことがある(それは高齢の親族との離れが進んだ現代では、とても珍しいことだった)

しかも、それは昨日の夕方のことだ。

(すっかり理科の標本みたいになってたけど、もっと早く見つけてれば)

なぜ、「もっと早く」と思ってしまったのか、彼には解らなかった。
つまり、彼にとって、死体はリアルではなかった。
網膜にいくら焼き付けても、気配はアメリカンジョークのように、彼を通り過ぎた。
(彼は無意識の内に死に動じない自分を否定しようとしていた。彼は死を禍々しいモノだと教わりこそすれ、こんなにもニュートラルなモノだとは教えられなかったから)
彼はいちいち同じ国の人間が1人死んでいたからといって、騒ぎ立てるつもりは無い。
もし、目の前に質量を伴った存在が現れたことに動揺なんてしてしまったら、テレビの向こうの悲劇は、最早悲劇ですらなくなってしまう。
何より、彼はニヒリズムを気取りたかった。

(僕はアレを警察に届けるだろうか。それとも、女子大生と付き合ってることをひけらかしてるクラスメイトを連れていって、度肝を抜かさせて遊ぶのかもしれない)

彼はまた、自分の行動を自分で予測することも好きだった。
ケイシはふと、バランスを崩し、転倒を避けるために、グラウンドに飛び降りる。
そこでようやく頭の端に、今日は絵画の塾の日だったことが思い出される。
彼はしぶしぶリュックを背負い、鉄棒に背を向ける。

(いや、やっぱり忘れることにしよう。あの茅の中に、僕は何も見なかった。または、見たとしても、それは何でもないつまらないことだった、なんて)

忘れること。
それは彼にとって、今すぐできる最高にクールな行動であるかに思えた。
事実、皆が騒ぎ立てるニュースになる可能性を秘めた出来事に遭遇しても、「何ともない自分」を想像することは、凄く格好良かった。
だが彼は、自分が必ずしも自分の思い通りには動かないことに、まだ気付いていない。
彼が、今後とるであろう行動。

?絵画塾の前に、もう一度見に行く

?やがて本当に草木が枯れる季節になるまで、通い詰める

?彼と同じく、偶然死体を見つけた誰かと遭遇する

●そしてすべて忘れてしまう。

???は、彼がこれから起こすこと(もしくは彼に起こること)。
●は、彼が一番望むことだが、彼はそれを実行できない。
それは、彼にとって、やはり死体はアメリカンジョークであり、大切なことではなかったから。
大事なことだけが忘却に値すること。
彼はそれに気付けないがために、しなくても良い苦悩に苛まれることになる。

だがそれも、
恋愛や、
ちんけなリアルや、
コンビニエンスな感動が、
数年後に彼にふりかかるまでの僅かな間の物語。




散文(批評随筆小説等) 昨日は孤独な世界③ Copyright 錯春 2008-10-29 01:01:14
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