晴れた日、歩いていた。ビルと高速道路に挟まれた、歩道。国道246号線。東京で一番空が汚いらしい。それでも、空は青い。風が乾いている。もうすぐ冬だった。空も乾いていた。狭い空。見上げる。目に映るのは、ビルと高速道路の影ばかりだった。ビルの壁に太陽の光が照っていた。強く。明暗のコントラスト。そこに、風は吹く。乾いている。風が通り抜ける。風ばかりが通り抜けるわけではない。空気も、ビルも、道も。みな通り抜ける。狭い場所から空へ。貫く。
2004年冬、初台にあるオペラシティギャラリーへ行った。ウォルフガング・ティルマンスの展覧会。その日も晴れていた。風が冷たかった。乾いていた。痛みのような風が、通り抜ける。高層ビル街を彷徨い、ギャラリーに着いた。チケットを買う。会場へ入る。写真は混乱していた。大小の写真が乱雑に壁にかけられている。幾何学的だ、と思った。四角形の写真。一つ一つ、見るものを突き放すような感じだった。中央に置かれた椅子に座る。景色に取り込まれる。オペラシティギャラリーの一部に。のどが渇いた。暖房のせいだろう。咳をするものが何人かいた。みなギャラリーの一部だった。ウォルフガング・ティルマンスは、通り抜ける。壁から壁を。その先へ。オペラシティギャラリーを越えて。そして、奪う。視る者は視られるものだった。ギャラリーは対象物となる。ウォルフガング・ティルマンスに視られていた。体を通り抜ける。奪われる。疲れを感じた。体を通り抜ける視線が、「自分」を奪い取る。このギャラリーの外の。ウォルフガング・ティルマンスによって。
三度、laver氏の「月」(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=167675&from=listbyname.php%3Fencnm%3Dlaver)へ。「井戸の底で」視る。井戸を通り抜ける視線。唯一の逃げ道を通り抜ける。真上に向かって。「井戸」の真上を見る。「井戸」を越える。「井戸」の外へ。井戸を通り抜ける。貫く。真上の月に触れる。そして、月さえも通り抜ける。太陽の光へ。通り抜けたのは、「自分」となった「他人」だった。「井戸」という壁を越えて、「自分」と「他人」は触れ合う。互いに侵入する。「井戸」を。月の光を。「自分」と。通り抜けたのは「自分」となった、「他人」だった。「他人だった自分」だった。
渋谷、センター街、朝。太陽は月を貫く。月は微かに空にあった。ティルマンスが望遠鏡を使って、月までの距離を貫いたように。物資を。媒体を。その後に続くものを、通り抜ける。「井戸」を越える。月の光を越える。太陽へ。その向こうへ。乾いていたのだ。求めていたのだ。触れよう、と。
何に触れようとしたのだろう。何を求めたというのだろう。「他人」と、月と、「自分」が触れた時、風は乾いていた。きっと、風は乾いていたはずだろう。
柱も庭も乾いている
今日は好い天気だ
エンの下では蜘蛛の巣が
心細さうに揺れてゐる
中原中也「帰郷」
乾いた風は、蜘蛛の巣を揺らす程度だった。だが、体を通り抜け、奪う。求めていたのだ。揺らす程度の力を。「他人」との接触を。「他人」への侵入を。