萌えと批判
渡邉建志

Nさんが日記で書いていた。Nさんが賢治について書いた批評について、批判があったらしい。某所のチャットで、「このレベルで留まれたのなら幸せだったんだろうけど」「賢治について書くなんて怖いものしらず」みたいな事を言っていた人がいた、ということだ。

ああ、その人たち、おろかだよなあと思う。まだ、「そんな批評書くんじゃねーよ」と言っていないだけましなんだけど。「詩の理解にレベルがあって、レベルが低い人間には何も語れない」というような風潮がもしあるとすればそれは恐ろしいことだ。AさんはAという感想を持った、Bさんはそれをみてなるほどそういう感想もあるのねと思った、それはめでたしめでたしだが、Bさんが、「Aの野郎なにもわかってないくせにえらそうに語りやがって」などという態度に出たならばこれはちょっと悲惨だ。

そもそも、極言すると、何かの作品をちょっと読んで、「このことばづかいすげー、萌えー」などと軽く放言しちゃえるのがネットのよさだと信じている。僕はそう信じているのだ。僕はそう信じてやまないのだ。それを、「ネットだからって甘えんな」とか「そんなことだからネット媒体は紙媒体から馬鹿にされるんだ」とか言ってる人は、ドラマを馬鹿にしている映画人と変わりなく、愚かである。ドラマにはドラマのよさがあり映画には映画のよさがある。同じ土俵でかたってはいけない。ネットには「自分で発表したものを気軽に自分の判断で消せる」という、紙媒体にはない特徴がある。そう、気軽に書ける、そして直していけるというよさがあるのだ。そこからこそ、だれもが紙媒体では気負いすぎてかけなかったような、Nさんの楽しい読ませる賢治批評が生まれたのだと思う。媒体が媒体の特徴を通じて、新しいより面白いものをうむ可能性をつぶしてはならない。例えば、ドラマが1時間ずつ毎週やって見るものを長期間にわたって楽しませるという、映画とは違う面白さを生み出すように。その媒体ではその媒体の特徴を生かしてやっていくのが筋道と言うものであって、その特徴を生かさずに無視して紙媒体と同じようにやら「ねばならぬ」などという人々は、紙の特徴にがんじがらめにされてて頭が固いだけのおたんこなすだし、そういうならそもそもネットでやらず紙でやってればいいのだ。そう、ドラマなんて作らずに映画を作っていればいいのである。なのにドラマを作ってるくせに、周りのドラマ人を馬鹿にするのであれば、それはもうとても愚かなことだと思う。


散文(批評随筆小説等) 萌えと批判 Copyright 渡邉建志 2008-10-27 14:39:19
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