今まであったものが、全く違って見える。かつて「他人だった自分」が、空に浮かんでいる。「自分」は近づきすぎてはいないか。遠くから見る月に。いつしか視ることで触れたのではないか。月を。触れる。接点が生まれる。視覚の限界で、月の光と交わる点が。「自分」と「他人」が接する。どこまでが「自分」だったのだろう。どこまでが「他人」なのだろう。「自分」は近づきすぎたのだ。
1968年天体観測に夢中だった少年が、一枚の月の写真を撮る。月の周囲は闇といえなかった。闇にしては優しすぎる色だ。灰色。かすんでいる。月の輪郭もまた、曖昧だった。ぼやけている。印象派の画家のような写真。淡く、揺れ動く世界。けれど、写真はそれだけではなかった。自己主張をする。被写体はカメラに取り込まれ、「他人」となる。カメラを持つ手が被写体に跡を付ける。ヴォルフガング・ティルマンスという手跡を。
彼の写真はいつも近すぎていた。被写体と彼の距離はない。被写体は常に、ティルマンス本人となった。それは、抽象的な写真でさえもそうだった。彼は、写真に「自分」を残す。カメラを通し「他人」を「自分」へと還元しようと試みているように。だが、写真として出来上がると、そこには「自分」が「他人」としてある。奇妙な矛盾だ。
laver氏の「月」(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=167675&from=listbyname.php%3Fencnm%3Dlaver)もまた近づきすぎる。太陽の光と、月。月と「自分」。物理的な距離ではない。互いは「他人」であり「自分」を演じている。これはトートロジーではない。もしそうであったとしても、意味はあるはずだ。ティルマンス少年は望遠鏡越しに月を見る。少年は距離を縮めた。近づいたのだ。だが、少年は月には触れなかった。彼が触れたもの。それは、距離だ。月と少年の間の距離に触れたのだった。その距離が完全に取り除かれようとする。「他人」は「自分」に還元される。視ることで、触れる。
その時、触れている点はどこだろう。どこまで「他人」に触れることが出来るのだろう。どこまで侵入可能なのだろう。どこまで、近づけるのだろう。
「他人」と「自分」。境界線にふと、「自分」を知る。光は「他人」だ。視るのが「自分」だ、と。「他人」と「自分」は同じではない。ただ、その境界線が曖昧なだけだ。曖昧すぎる。月の光は太陽の光だった。ならば、それを見ているのではなく、それに見られているのかもしれない。