恋愛の詩、とくに相手のことを必要だ、という詩を書こうとして、書いたら全く違うところに行ってしまうという話をなんどもしたことがあります。
原因は「自分が知っている彼女を描こうとしていた」ことらしいことは分かります。
でも、「何であってもどうでもよく、とにかくあなたが好き」だと書いたらよかったのかというと、「誰でも良かったのか」という話になります。
黒田三郎の『ひとりの女に』は、とりあえずの答えを私に与えてくれます。
ここでのポイントは自分に彼女は分からないと決めてしまうことでした。
具体的には
●好きな人に向けて書く
●好きな人のやったことを書く
●自分の心の中の出来事を書く
●好きな人の描写はしない
例えば、4行の連が6つ続く『もはやそれ以上』を例にしてみます。
もはやそれ以上
もはやそれ以上何を失おうと
僕には失うものとてなかったのだ
河に舞い落ちた一枚の木の葉のように
流れてゆくばかりであった
かつて僕は死の海を行く船上で
ぼんやり空を眺めていたことがある
熱帯の島で狂死した友人の枕辺に
じっと坐っていたことがある
今は今で
たとえ白いビルディングの窓から
インフレの街を見下ろしているにしても
そこにどんな違った運命があることか
運命は
屋上から身を投げる少女のように
僕の頭上に落ちてきたのである
もんどりうって
死にもしないで
一体だれが僕を起こしてくれたのか
少女よ
そのとき
あなたがささやいたのだ
失うものを
私があなたに差上げると
恋人=結婚相手が出てくるのは最後の1連だけです。ささやくだけ。
そして残りの5連は詩の書き手が、たまたま生きてきたということを書いています。
でも、第5連の少女はどこに呼びかけているのでしょうか。
第4連までを見たら「運命」ですが、第6連を見たら「恋人」に見えます。
「失うものを私があなたに差上げる」というありえない言葉を呼び寄せるために、
黒田は運命=少女=恋人という等式が成り立つような論理の力技をこなしてしまったかのように見えます。
もっと凄いのは『そのとき』です。
この抽象的な詩では恋人の描写すらありません。
確かに恋人は書き手を「あっと言う間もなく/この世の行列から押し出した」と書いています。
その行列は「死ぬ順番を待って/この世に行列を作って」会社の食堂の食事の順番、または死ぬ順番を待つ行列です。そして、書き手は「ぼんやりと立って」いるだけです。
彼女が何をしたかはかかれていません。ただ、「恋人が彼を特別な存在にする」ということは分かります。
そしてこの詩は「恋人が彼を特別な存在にする」ということが分かっただけでお腹いっぱいになります。
黒田三郎の『ひとりの女に』では結局彼女が誰かは分からずじまい。
ただ、彼女がささやき、愚痴をいい、座るということだけが言葉少なく語られます。
現代詩文庫の『黒田三郎詩集』には、『ひとりの女に』だけではなく、このとき結婚した奥さんが入院したときの娘との生活を描いた『小さなユリに』も全編入っています。
『秋の日の午後三時』の
遠くであしかが頓狂な声で鳴く
「クワックワックワッ」
小さなユリが真似ながら帰ってくる
など、『ひとりの女に』に比べて非常に細かく娘を観察していますが、
先ほど挙げた恋愛詩の4つのポイント
●好きな人に向けて書く
●好きな人のやったことを書く
●自分の心の中の出来事を書く
●好きな人の描写はしない
が守られていて面白いです。
この通りにやれば、多分僕も恋愛詩がかけます。でも、そういう詩を書きたいと思うかは、別問題です。