詩とイメージ −萩原朔太郎 蛙の死−
リーフレイン
某所で、
>意味がわからんと言っていた軟弱者が何人かいましたが、
>意味を伝えるだけなら詩なんか必要なないじゃん。
>詩は作者と読者の共同作業であるべき。
>僕が1から10まで語ったら、読者はあと何をすればいいというんだい?
という発言を見かけました。
そう、これだけ読んだら実に正しいと膝を打ちます。詩を読むときに、やたら説明くさい詩ぐらいあほくさいものはない。 嬉しい、美しい、悲しい、甘酸っぱい、そうした情感を直接説明せずに、読者に自然に喚起させてくれる詩のほうがはるかに嬉しい。
が、しかし、ここで問題があります。
「意味がわからん と言うとき、読者がいったい何を意図していたか?」
およそ詩を読むというとき読み手は1から10まで論理的な作品を期待しているわけではありません。(それを期待するのであれば散文を読むわけです)何を期待してるか?人それぞれではあるのですが、音楽を聴くときのような、絵画に浸るときのような、現実世界と一線を画したイメージを期待しているのではないでしょうか。 つまり、読者は「説明が足りない」と怒っていたのではなく、「イメージが喚起できない」と怒っていた可能性が高い。 じゃあ詩で喚起されうるイメージとは例えばどういうものか?
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蛙の死 萩原朔太郎
蛙が殺された、
子供がまるくなって手をあげた、
みんないっしょに、
かわゆらしい
血だらけの手をあげた、
月が出た、
丘の上に人が立っている。
帽子の下に顔がある。
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一切の説明がないといえば、この詩もないです。ワケはわからない。しかし読み手の中に凄みのあるイメージがわきあがります。
不協和音で作られた現代音楽に耽溺するときにように、あるいは、雑多な色を混ぜ合わせたような現代絵画に耽溺するときのように、それがたんなる落書きではなく、作品だと感じさせてしまうだけのエネルギーが焦点を結んでいるときに、初めて鑑賞者の内部にイメージが喚起されます。言い換えると、「詩のわかりやすさ」とは、イメージ喚起の容易さであり、「詩の質」は喚起されたイメージの質に通じると思ってもいいのではないでしょうか。
さて、萩原朔太郎の 蛙の死 からイメージ構築の手法を見てみます。
この作品は、大雑把に3つのシーンを描き出しています。
第一のシーン:蛙の死体とこどもたち
第二のシーン:月
第三のシーン:丘の上の人
秀逸だと思われるのは、シーンの連鎖が連続するために、読者の感情の動きをキーに使っていること。
第1のシーンで、ぎくっとした読者は、月という視点のジャンプをはさんで そのぎくっとした怪しい気分をそのまま凝縮したかのような帽子の男というシーンに導かれます。連想手法として通常使われる、ある一つの対象からさまざまに連想したものを書いていくのではなくて、シーンによって導かれる気分をさらにシーンにしたてていく この手法は短いながら詩がダイナミックに動き、かつ一つの作品としてのまとまりを確固たるものにしています。
余談ですが、この作品は大正六年に刊行された「月に吠える」に入っています。ということは、書かれたのはその前数年の間ということでしょうか?およそ90年前の作品なわけですが、この感覚は現代でも十分通用するのじゃあないかと思ったりします。
すごいことだなあとしみじみ思います。