夜明け、静かな街に若い男性の笑う声が響く。ビルとビルの間を反響しながら明るくなった空へ放たれる。カラスの漆黒の鳴き声。かすかな雀の声。ゴミ収集車のエンジン音と世間話。夜勤明けだった。体は疲れていただろうか。だるさは感じられなかった。
雲に覆われた横浜の街で、快晴だった当時の渋谷の街を思い出そうとしているのはなぜだろう。
当時、コールドプレイの「静寂の世界」をよく聴いていたように思える。もしかしたら違ったかもしれない。ただ、「静寂」という言葉に強くひきつけられていた時代だっただけなのかもしれない。イデオロギーとしてだけの醜悪な「静寂」。けれど当時の朝の渋谷には、イデオロギーとしての「静寂」だけではなかったのではないだろうか。laver氏の「月」(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=167675&from=listbyname.php%3Fencnm%3Dlaver)を読んだ時、当時の景色がよみがえった。
当時の確かな景色を覚えている、と断言することは出来ない。曖昧な記憶の映像が映る。ビルとビルの間に白い月があった。捏造された記憶だろう。けれど、それゆえにこの月は意味深く思えるのだった。そして、捏造の記憶のもうひとつ、コールドプレイのアルバムジャケット。砂のような顔。それがなぜか、月の光のように思っていたのだった。ぶれる光、崩れる光のように。月は自らで光ることは出来なかった。月の光はあくまで他者だ。それは月にとってさえも。太陽に呼応する月の光。脆く感じられた。ぶれる光、崩れる光のように。だが、それ以上に朝の月は脆かった。月の存在は危うかった。月の影は太陽によって打ち抜かれたかのように見えた。そこは、貫通した跡。月は今にも息絶えようとしていた。自らの寿命ではなく、太陽の光によって。
その間逆の光景がlaver氏の「月」にあった。過剰なまでの月。「熟れた果実」である月は現実から乖離する。力強い月。月の光が闇に浮かぶ映像。黄金の月。橙の月。異常な自己主張を見せる月。「未視感」は月に対してだったのだろうか。それは、「熟れた果実」に対してではなく、「熟れた」現実に対してだったのではないだろうか、と。だが、もし現実が「果実」、つまり月と、置換可能であったならばそれ自身は常に他者でしかなかった。太陽によってコントロールされる他者。ぶれる光、崩れる光のような。「月」の最後の二行は、
他人だった自分が
またひとつ落ちてくる
と描かれる。「自分」は「他人」だった。「自分」は不可抗力の事実でしかなかったのだろうか。「他人だった」とはいえ、自らを「自分」と名指す。奇妙な矛盾。ぶれる「自分」、崩れる「自分」。「自分」は「他人」でしかありえないのかもしれない。「自分」自身にとってさえも。
文章を円還させよう。当時「静寂」を求めいていた。けれど、実際に求めていたものは他者だった。もちろん、「自分」を含めた他者だ。「自分」とともにいる「他人」を。けれど、「自分」が他者であったならば、他者さえも存在しないのではないだろうか。奇妙な矛盾だった。「自分」はいた。それは感じられた。「自分」も「他人」もいないなどありえはしない。
文明が発達するにつれて、人は知覚作用を変化させてきた。かつての人は「他人」も「自分」も識別しようとはしなかったのではないか。視覚化させることで、人はそこにある「存在」を信じた。視覚に対する絶対の信頼を築いた。文字、印刷、テレビ、インターネットによって、視覚作用は劇的に変化した。いつしか触れることから遠のく。触覚の限界は視覚である、と言ったのはデリタだった。けれど、視覚は一人歩きした。視覚は触れない。触れようとはしなかった。
月は自らを語る。けれど、月光を語ることはないだろう。月は、荒廃した土地を語る。その荒廃した土地に反射する光についてなら、語るかもしれない。「他人だった自分」が放射される。
あの日、「静寂」は確かにあった。渋谷、センター街。映ったのは他者だった。それを見る「自分」だった。そこに「静寂」はあった。求めていた「静寂」とはだいぶ違う。けれど、時とともに変わり続けるのだ。それくらいの誤差は不可抗力としよう。ビルとビルの間の月。取り残された果実だった。未発達で、すでに成長することも出来ない果実。それも「他人だった自分」だ。始発に乗り遅れないようにスクランブル交差点を走った。疎らな人。息が切れた。体はやはり疲れていたのかもしれない。当時の記憶など、今語られる御伽噺でしかない。
「未視感」を覚えた月は、他者が放った自己なのだ。鏡に映る「自分」とは違う。落ちてくる。「他人だった自分」は記憶を捏造する。