夜のナイフ、君はとても美しい。
ブライアン
それからどうだったか。愛の告白をした友人は二度とナイフを手首に添えることはなかった。彼が命を賭して口説き落とそうとしても、誰一人として落ちる女性はいなかった。それが、たった一夜限りの関係であったとしても。彼の命はそれほど安くはない。ナイフを捨て去った後、彼はもう一つの手段を考えた。君はとても美しい、と繰り返し囁くこと。限りなく標準語で。程無くして、彼には彼女が出来た。命を賭したとしても、ろくなことはない。念願の夜、彼は彼女の耳元で囁くだろう。君はとても美しい、と。限りなく標準語に接近して。
ベランダで叫んだ友人は、地元の電子部品組立工場に就職した。彼は初月給を頭金にして、ホンダのアコードワゴンをローンで買った。あの日、大声で叫んだ声は、夜の闇に溶けてしまったはずだった。けれど、彼はそれを信じようとはしなかった。アコードワゴンの運転席の窓を開く。時速120キロ。彼は窓の外へ大声で叫ぶ。あの日の声に追いつこうとしていた。けれど、今叫んだばかりの声にだって追いつくことは出来ない。彼はアクセルを強く踏みつける。スピードが上がる。後ろからパトカーのサイレンが鳴る。パトカーは声をあげる。彼は舌打ちをする。せめて、とシートベルトを急いで締めた。急速にスピードは落ちた。道路わきに車は止まる。彼の叫び声は遠くへ走り去ってしまう。
酒、買ってくっから、と言ったままあの日帰ってこなかった友人は、アコードワゴンなんか、と言って馬鹿にした。あの日、彼は酔ったまま家に帰った。記憶はなかった。気がつくと自宅の布団に寝ていた。頭が痛かった。時計を見る。仕事の時間だった。あの日の次の日、彼は初出勤だった。気持ちが悪かった。彼は家を出る。家の前に止められた日産のスカイラインの扉を開ける。マフラー、タイヤ、エンジン。ありとあらゆるところを彼は改造していた。彼はエンジンをかける。回転数が上がる。昔から数字が苦手だった。けれど、車をいじり始めてから彼の会話の大半が数字ばかりだった。馬力、回転数、排気量。誰も理解できなかった。ただ、彼の車がものすごく速いこと、そして、ものすごく乗り心地が悪いことは理解できた。回転数が上がるメーターを見つめ、彼は思うだろう。今日ばかりは、アコードワゴンのほうがよっぽどいい、と。
あの冬、大学や就職で県外へ出て行く者を皆で駅まで見送っていた。見送りの車内ではいつも、ゆずの「サヨナラバス」と安室奈美恵の「SWEET 19 BLUES」が繰り返しかけられていた。まるでほかの曲を忘れてしまったかのように。車内のステレオのボリュームを上げる。後部座席から身を乗り出す。前を走る車はなかった。限りなく大声で歌った。駅に着く。新幹線はもうすぐやってくる。ホームへ出る。駅のホームでも、歌った。永遠に別れるわけではない、と。けれど、感じていた。もはや過ぎた時間なのだ、と。愛の告白をした友人は、新幹線に乗り込む者の背を見て叫んだ。君はとても美しい、と。笑い声がその背に届いたかは分からない。けれど、新幹線の速さならその声に追いつけるだろう。新幹線はゆっくりと動き出す。遠くへ、南へ走り出す。新幹線はまもなく山を越えてしまうだろう。
車内に戻る。車のエンジンをかけた。カーステレオからカセットテープを取り出す。久しぶりだった。車の曲は変わった。もう、二度と「サヨナラバス」も「SWEET 19 BLUES」も聴くことはないだろう。変わっていく。永遠に別れるわけではなかった。けれど、もはや時間は過ぎてしまったのだった。