夜のナイフ
ブライアン
彼女は体を後ろに仰け反らせた。酒が頭に回ったようだった。ぐるっと頭を回す。目の間のお菓子の袋を開けるのに夢中だった。乾き物の袋を。友人の一人がベランダから大声を上げる。冬の冷たい風が部屋に入る。夜は彼の声を飲み込む。再び無言となった夜。夜はおぼろげに雪を照らす。彼はもう一度大声を上げた。隣家の明かりが点く。彼をベランダから引き摺り下ろす。さらに、彼は大声を上げた。ビールの空き缶が部屋中に散らばっていた。彼女は電話をかけていた。女友達を呼んでいた。眠かった。閉じかけの目でコップを探した。彼女の隣に一人、腰掛ける。彼は何かを言ったのだろう。誰に対してだったのか。それは分からない。その時のことを一語一句覚えていることなど出来るはずがない。彼は、彼女の横に座る。なんと話しかけたのだろう。彼女は彼との間を保ちながら、ビールを口に運ぶ。彼は彼女に愛の告白をしたはずだった。あきれた顔をして彼と彼女を見ていたのだろうか。いや、愛の告白なんか気にかける者はいなかった。面白そうに食いつくことも、しらけた態度をとることもなかった。
彼は目に見えて語気を強めた。ベランダで叫ぶ友人よりも力強く。そう、あの夜だった。無言の冬の夜は、彼の声に答えたのだった。闇にチラチラと雪が降ってきた。不規則に降りてくる雪。ベランダから吹き込む冷気。彼のほうを向く。彼をあしらう彼女。彼は彼女の正面に回りこんだ。乾き物のお菓子を手にしたまま、彼を見つめる。観客だった。冬の夜は彼と彼女のためにあった。冷気が部屋に入る。細かい雪も舞い込んできた。無言ではなかった。何かしらの言葉をかけたり、手を叩いて囃し立てたりしていたに違いない。彼女は彼をなだめていたのだろうか。彼は更に語気を強めた。まじだって、と。彼はどこからかナイフを見つける。冷たいナイフだった。躊躇いがちに彼と彼女の周囲を囲む。お前のためなら死ねるって、と彼は言った。更にもう一度。冷たいナイフは彼の手首に添えられる。お前のためなら死ねる、と。彼女は笑っていた。ビールを口もとに運ぶ。死ななくて良いよ、と。皆、笑うほかなかった。彼の体からナイフを奪う。いや、奪うことなど誰もしなかったのかもしれない。彼は何度もそう繰り返していた。彼のための夜は終わったのだった。雪はいまだ降り続けていた。夜はもはや無言ではなった。夜は喧騒に満ちている。笑う声、愛の告白、叫び声。彼女の携帯が鳴った。あ、来た、と言って彼女は友達を迎えに立つ。愛の告白をした友人は、手持ち無沙汰になる。目の前のビールを手にした。さむぐね、と彼は言った。なあ、と答えた。彼女は友人を連れてきた。二人は適当な場所に座った。彼女の友人の前に、愛の告白を終えた友人は座った。さっきのナイフを手に持っている。なあ、俺、お前のためなら死ねっから、と彼は言った。部屋の窓は開いていた。空に散りばめられたエーテルは、笑い声を伝える。どこまでその声は届いたのだろう。少なくとも、隣家の人には届いてしまった。隣家の窓から怒鳴る声がする。急いで窓を閉める。午前1時20分、夜は雪を降らしていた。
夜が明ける。静寂は訪れなかった。窓から強烈な光が差し込む。地上の雪が光を一層輝かせた。眠っている者、テレビゲームをしている者。携帯電話が鳴った。眠りから覚めた彼女は、友人を揺り起こす。起きている者に、帰っから、と伝えて部屋を出た。ナイフが転がっていた。ビールの空き缶と同じように。締めの言葉など思いつかない。いまだに、誰のためにも死んではいない。その夜から絶えず、続いているだけだ。