回転する蜻蛉
しめじ

 人魚が干されている。悲しい目をした犬がそれを見て吠え続ける。雨の上がった夕暮れ。漁師が身の丈ほどある銛を担いで海から上がってくる。彼は干された人魚を見て笑った。そこへ一升瓶を持って女がやってきた。漁師は干人魚を開いて網の上に乗せる。雲の間からちらちらと星の光が覗いている。炭を熾して人魚を炙ると、乾いた血と肉が焦げる匂いが漂い始める。その匂いに惹かれて斑猫がやってきて七輪の隣にしなと座る。漁師と女は酒を煽って明日の天気の話をしている。

「洗濯バサミがのうなったんだ」

 女はそう言って右手を差し出す。漁師は地面に落ちている洗濯バサミを拾って女の手に乗せる。洗濯バサミを受け取ると女はそれで人魚の肉をはさんで食べ始めた。油が浮かぶ炙り目に歯を立てると、祝詞のような歌声が聞こえてくる。中性的な歌声。煙は高く上り雲との境がなくなっていく。斑猫は女の食べかすにありついては、鱗をはき出していた。
 漁師はぐい飲みをコマのように回して笑っていた。女は相変わらず洗濯バサミで器用に人魚の肉を啄んでは、酒を煽っていた。

 やがて一升瓶の中の酒がなくなり、月は中天に登る。漁師は女に別れを告げて家に帰った。

 家に灯りは灯っていない。静まりかえった家中に漁師がついた溜息が充満する。仏間に並べられた遺影。その数は今年八十を越した。そろそろ置き場がないなと思いながら、床につく。

 翌朝、アサガオが朝露に濡れた花弁を揺らしている。初夏の曙に漁師は今日も銛を携え沖へ出る。船は一艘。漁師が戻ってくるまで漁村は眠ったように静かになる。

「風がぬるうなった」

 誰に伝えるでもなく、漁師はそう呟いた。人魚が網に掛かったので、銛で突いて桶に入れる。この辺りで獲れる魚はこんな物しかない。

 日が落ちて、浜に戻ると女が一升瓶を持って待っている。生ぬるい風が吹いて寝苦しい季節がやってくる。何度となくやってきた夏がくる。遠い空に稲光が走った。黒い雲がゆっくりと東へと流れていく。漁師は網を引き上げて、村へと戻った。

 いつものように女が一升瓶を掲げて立っている。女は惚けたように遠雷の音に耳を澄ましていた。漁師達の村までは雲はやってきていない。欠けた月が西の空にぶら下がっていた。

「八十回目やのう」

 遠い光を見て女が呟いた。漁師は空のぐい呑みをくるくると回していた。生ぬるい風が頬を撫でていく。いつの間にか瓶は空になっていた。

「兄さんがのう、昨日呼んだんじゃ。土手の上をぶらぶら提灯持って歩いて。薄ぼんやりした光が暗いところに尾を引いたように流れていくんじゃ。あんまり魚ばかり食わんほうがええよって言うてた。振り返ったら坊さんが托鉢をしょってな、銀を流したような澄んだ音で鈴を鳴らしとった。見上げると星空じゃ。きれいやったな」

 酒精で頬を染めた女が漁師にはだんだんと美しくなるように思えた。そっと顔に手をさしのべると、女はにっと笑ってその場を去っていった。月は沈んで、空は雲で黒く覆われていた。


 翌朝、女が飼い犬にのど笛を噛み切られて死んだ。漁師は女の亡骸を海に流すと何もなかったように酒を煽って床についた。

 翌日も漁師は海に出る。干した人魚の周りを青色の蜻蛉がぐるぐるといつまでも飛び回っていた。やがて日が落ちて夜が来る。月が満ちて漁師はひとり人魚を炙る。煙は立ち上りつづけ、月の手前まで登り続ける。炎が夜の中で寂しげに燃えていた。朝日が昇るまでずっと煙を吐き続け。


散文(批評随筆小説等) 回転する蜻蛉 Copyright しめじ 2008-10-08 13:37:48
notebook Home 戻る