「お隣さん」
菊尾
御免下さーい」
はいはい、どちら様?
玄関越しに掛けられた声から男性のようだと推察する。
近頃は物騒なのでドアを開けない、まず誰なのかと名乗ったらドアを開けることにしている。
チェーンは確認して大丈夫そうだと判断できたならその時初めて外すことにしている。
覗き穴は一瞬だけ覗くことにしているがあまりしない事にしている。
何か鋭利なもので覗き穴を突き刺してきたら怖いから。そんな話を以前どこかで目にしたことがあり、頭にこびりついて離れてくれやしない。
兎角そんな理由であまり覗くことをしない。
インターホンなどは完備しておらず、備え付けられてあったエアコンも今では暖房しか利かない有様である。
築云十年の安いマンションで交通の便は駅まで徒歩10分と微妙な距離だが家賃が安いので借りている。
「隣に住んでいる田中ですけどー。」
ああ、田中くん。隣には田中という大学生が一人暮らしをしていた。
この春に越してきたばかりで最初彼が挨拶に来てくれて話したときになんとなく気が合った。
何か用事でもあるんだろうか。
「はい。」
僕はチェーンをしたままドアを開けて覗くと確かに彼だったので、チェーンを外してドアを開いた。
ボーダーのTシャツにジーンズ姿の彼は一見すると爽やかだ。ただ男にしては全体的に細身か。
「どうも。ちょっとマヨネーズ貸してもらえませんか?」
「ああーいいよいいよ!」
そんな事だろうなと思ってはいた。冷蔵庫を開けてマヨネーズを取り出す。
はい、どうぞ。と手渡すと彼はすみませんと苦笑いを浮かべて頭を下げた。
「それじゃすぐ返しますんで。・・・あ、知ってます?新しい人来るみたいですね?ここ」
全く知らない。というか学校生活を営んでいるわけじゃないのだからいちいちそんな情報は入ってこない。
「いや全然。よく知ってたねそんなこと。」
「えぇ、管理人が話していたのを立ち聞きしたんです。来るみたいですよ。二組。一組はカップルでもう片方は若い男性のようです。」
カップルか・・・弱ったなぁ。カップルが隣ならいいんだが・・・。なにせ夜眠れなくなる、うるさくて。
「どっちがどっちって聞いてないの?」
「いや、それが分からないんですよねぇ。すんません、肝心なとこ。」
「いや、それは君のせいじゃないから気にしないでよ。」
努めて明るく言ってはみたが内心はそろそろ他の場所でも探そうかと考えていた。
しかしここは住み心地がいい。何よりも管理人がいい加減でここを放置してくれている事が助かる。
「カップルが来ちゃうと、あれですよね。夜とか面倒なんですよねぇ〜」
「そうそう。でもさ、注意するとさ、管理人に目つけられるしね。そうなるとここ出なきゃいけなくなるし。」
「今どこも結構住みづらいですよねぇ〜家電製品とか多いと落ち着けないんですよねぇ。新築も綺麗すぎて住みにくいし。」
「そうなんだよね。困ったねぇ。」
「あの、今の人はどうしてらっしゃるんですか?最近お見かけしないように思えるんですけど。」
田中くんは時々天然思考に陥る。
「はははっ田中くん、空き部屋は僕ら二人のとこしかないんだよ?そしてさっき君言っただろ、二組入ってくるらしいって。」
「ああそうでした、また天然出ちゃったなぁ。なんか普通に話しちゃうんですよねぇ。癖で。そうでしたそうでした。でもあれ?いつから空いてました?」
「ん〜?君そろそろまずいんじゃないか?記憶が留めておけてないじゃないか。」
「まずいですかねぇ?そろそろ上に行かないといけないのかなぁ。」
「今というか前の人は二週間ぐらい前に出ていったよ。僕は何もしてなかったんだけど、何か感じたんだろうね。」
「それでもいいですよねぇ。暫くはその人と暮らしてたんでしょ?自分ダメなんすよねぇすぐ追い出したくなっちゃうんで。」
「一人の空間が欲しいんだろ?」
「そうなんですよ〜だから以前はしょっちゅう来てましたよ、祈祷師とかが。お札とか貼っちゃったりで。」
「田中くんバレバレだよ〜僕みたいに上手くやらないと。生活できなくなっちゃうよ?」
「そうですよねぇ〜。あ、すんません長居しちゃって。じゃあ、そろそろ・・・」
「あ、はいはい。またね。」
「はい。今度、飲みにでもいきません?」
「ああ、いいね。そうしよう。」
「じゃ、また。」
「はい。」
ドアがガチャンと音を立てて閉まったのでいつもの手つきでチェーンロックをかける。
それは厳密に言うと嘘になる。一般人にしてみたらここはただの空き部屋で何もない。
ただ僕らは生前と同じように生活している為、その際使っていた日常品の類なんかもそのままの形で残せている。
実際には存在しないが、僕らの想念の問題であり、念じればそれは以前の形をイメージとして復元することができる。
ただ新製品や生前に使ったことのない物はいくら念じても形にすることができなかった。
生前の感覚で喩えるならここは妄想の世界だ。妄想も想像も想念の世界であり、何より僕らが想念の塊だ。
実のところ駅まで徒歩10分も家賃が安いという理由も名目上の理由であり、実際には勿論家賃なんか払っていない。
とは言っても生前でさえ家賃は引き落としだったので支払う感覚はその時から乏しかったわけだが。
ただ全ては感覚なのだ。そうしているという感覚だけがある。頭では理解しているはずなのだが。
今更だが僕と田中くんは一度死んでいる。それも自覚しているがここを離れずに普通に暮らしを堪能している。
死んでも僕らはまだ生きているのである。田中くんは事故死で僕は通り魔に刺殺されてしまった。だが成仏しようとする気にはなれない。
この世にやり残した事が特にあるわけではないのだが、ただ単純にこの世が好きだからこの場に居続けている。
ただそれによって現実で問題が起きるのは僕の本意ではないので、この部屋を借りる住人に対しては一切干渉をしない。
田中くんはまだ若さ故にかそれが我慢できないようだが・・・。
こんな暮らしに退屈し始めたら成仏も視野に入れるつもりだが、今のところその予定はない。
田中くんもきっとそうなのだろう。
僕が願うのは新しい住人が、どうか鈍感であってほしい。そのただ一点だ。
ちなみに死んだのだから用心深くなる必要はないのではないかと思う方もおられるかもしれないが、
最近はこちらも物騒でタチの悪い奴、所謂悪霊なんかが僕ら害のない浮遊霊なんかを無差別に取り込む事件が発生している。
まったく。取り込めば取り込むほど様々な想念が入り込んでグチャグチャになるだけなのに。
そんな理由で、僕は今でも生前と変わりなく、チェーンロックをかけているのである。
さて、今夜は何にしよう。
「すんませーん御免下さーい。」
何にするか考えていたら田中くんだ。マヨネーズだな。
今晩はどちらかの部屋で夕食を共にするのも悪くないかもしれない。
「はいよー。」
僕は返事をしてドアを開ける。勿論、チェーンはかけたまま。