秋ざれ
三州生桑

 大学からN駅まで歩いて行くことがあります、と話しのついでに言ふと、先生は興味を持たれた様子で、その日は一緒に歩いて帰ることになった。N駅と大学までの間には、地下鉄の駅が十ばかりある。距離はどれほどか分からないが、ゆるゆる歩いて二時間は優にかかるだらう。爽やかな秋の午後に、図らずも先生と長時間閑談することになったわけだ。二人とも若かった。先生は私より一回り上で、干支は同じである。
 先生は結婚されたばかりであった。道すがら、自づとその辺りの話しになる。お祝に、私は無銘の茶碗を贈ったのだった。今から考へても恥づかしくなるやうな安物の楽茶碗だったが、毎日使ってゐると仰しゃってくださった。先生は表千家の茶の湯を習はれてゐる。何度か御宅の茶室で、茶を立てて戴いたことがあった。確かに、毎日のおさらひに、一々高価な茶碗を持ち出すのは面倒かも知れない。案外よい贈り物であったかと嬉しくなった。
 私は先生の奥さんを知らない。結婚式の折りに、ヴェールをかぶった後ろ姿を拝見しただけである。その後、結婚を機に新築された御宅に何度御邪魔しても、不思議と奥さんには会へなかった。先生の仕事を手伝ふために、御宅に泊まることもあったのだが、それでも奥さんの気配すら感じられない。奥さんは画家だと聞いた。芸術家は、人とは違ったところがあるのかも知れない。檜の香りの漂ふ玄関には、奥さんの師にあたる方から贈られた、五十号の暗い抽象画が掲げられてゐた。
 当時、先生は東京の或る大学の研究室から招聘されてゐたが、奥さんは東京行きに反対されてゐた。先生は大いに乗り気だった。「普通、旦那が出世するのを喜ぶものぢゃないのかなぁ」と先生はつぶやかれた。奥さん曰く、私はこの家に嫁いで来たのです、あなたのご両親の老後の面倒を見る覚悟もあります、だけど一つだけ条件があったはずです、アトリエを作って下さるといふこと・・・。私は見たことがなかったが、あの広い家のどこかに、奥さんの秘密のアトリエがあるはずだった。
 「どうして結婚したんですか?」と、ぶしつけに問ふと、先生は苦笑しつつ「惚れてたんだよ」と仰しゃった。街は、いつの間にか黄昏時になってゐた。秋の日は暮れやすい。うそ寒い風が吹き、歓楽街のネオンが灯り始める。唐突に、先生は笑ひながら、道端に毒々しくきらめいてゐる看板を指差し、「お前は、ああいふ所で遊んだことがあるか?」と尋ねられた。「おごってやるぞ」・・・私が渋い顔で応へると、先生は大笑ひされた。さうして「変はらないのは、お前だけだなぁ」と寂しさうに仰しゃった。




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散文(批評随筆小説等) 秋ざれ Copyright 三州生桑 2008-09-30 20:51:32
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