回覧車Ⅳ
ブライアン

千歳空港から羽田空港までの約一時間のことだ。下降を始めた飛行機の窓から外をのぞいていた。新木場の臨海公園だろう。夜の街に輝く観覧車が見える。その横は真っ暗な海が広がる。観覧車の光は海をわずかにでも照らすことはない。暗闇の海。海は静かに飛行機を迎える。波の音も立てずに。
 羽田空港はわずかに雨が降っていたようだった。着陸が少し遅れるとのアナウンスがあった。よい情報ではなかった。昔から乗り物酔いがひどかった。下降する飛行機。胃に溜まってゆく不快感。見えない敵は、飛行機の外にいるのだろうか。もしくは、胃の内にいるのだろうか。輝く観覧車が通り過ぎてゆく。海は何も語らなかった。まして夜の海は何も吐き出すことなどあるわけはなかった。闇は沈黙だった。そして、海はすべてを飲み込んでしまう。悪夢も喜びも、飛行機さえも。不快な気持ちが増してゆく。高速で移動する飛行機を、夜の海は飲み込んでいく。だが、夜の海には距離も、時間もなかった。飛行機の移動速度がはやかろうが、おそかろうが、海はすべてを飲み込むのだ。得てして、闇とは、海とは、そういうものなのだ、と。輝く観覧車は広がる海に臨む。観覧車のその一室。一組の恋人たちは夜を眺めている。思い出が海に飲み込まれてしまうことも知らずに。二人は遠くの船を指差す。わずかに光が点滅する船。海に浮かぶ船は、人類の最後の希望だった。何もかもを飲み込んでゆく海に、船は、ただ一つ浮かんでいるのだ。船上では見えぬ波、見えぬ渦と戯れる乗組員たちがいた。双眼鏡で陸を除く。その先には輝く観覧車があった。人類の希望は、喜びをあらわに、安堵の息を吐く。この無言にして、空虚な友、夜の海と別れるときが刻一刻と近づいていた。船上は、輝く観覧車を見つめ、無言の喜びに満ちていた。言葉はすでに夜の海に飲み込まれてしまった。船上は静かだった。わずかにエンジン音が鳴り響いていた。耳を澄ませば、観覧車の二人の愛を語る声が聞こえてきそうなほどに。あと、一時間あまり。夜の海、静寂、沈黙を通り抜ければ、人々の語りつくされた声が聞こえてくる。観覧車から降り立った恋人同士が手をつなぎ、楽しかったね、と語り合うような。母が子に、楽しかった?と尋ねるような。船は汽笛を上げた。その音は海に飲み込まれる。観覧車で愛を語り合う恋人たちには届くはずもない。狭い一室で、二人は手をつなぐだろう。その目は輝く都市の方向を見ている。騒々しい音に満ちた街の明かりを見ているのだ。二人は夜を通り抜ける理由などなかった。戦場の乗組員とは裏腹に、この夜が永遠に続けば良いと願っている。永遠は半分に切っても、永遠なのだ、と。
 飛行機はわずか5分ほど遅れて着陸した。滑走路には光が照らされていた。飛行場だけがまるで宙に浮いているようだった。今、空を飛んできたのだ、と空を見て感心した。人類は重力から逃れたのだろうか。闇を切り裂き、宙に舞って。胃の不快感が溢れ出しそうだった。地球の重力を無視したためかもしれない。それは罰だった。神が創った夜を、重力を逆らった罰だったのだ。足が震えた。海に浮かぶ船はあと何時間で港に着くのだろう。


散文(批評随筆小説等) 回覧車Ⅳ Copyright ブライアン 2008-09-25 23:11:43
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