マヤは古代じゃないんだよ!
たりぽん(大理 奔)
歴史というものを軽視する人を見分けるには中米の話をすればすぐに判別できます。「メキシコのピラミッドって見てみたいよね〜。」とか話題を振ったときに「古代マヤのピラミッドっていいよね〜」みたいな反応が返ってきたらそれはほぼ「歴史」というものについて勉強したことがない人でしょう。(年号を憶えるのが歴史だとか思っている人は地名を憶えるのが地理だと思っている人より残念な人です。)
古代マヤ文明とか言うけど、メソアメリカの古代にあたるのはオルメカ文明なのです。だから「古代マヤ文明の」とひとくくりにするのは、乱暴に言えば「神話の時代から戦国時代」を古代日本というようなものなのです。それぞれの文明・文化にはそれぞれの時代区分があって、古代とか中世とか近世とかいう西欧の歴史用語を直訳したようなとんちんかんな歴史区分を勝手に当てはめちゃいかんのです。歴史区分って言うのは政治の道具になるぐらい恐ろしいものなのでふわ〜っと流されちゃだめですよ・・・って話を戻しましょう。
現代、という言葉は便利です。「いま、から少し前まで」あたりの事をずっと指し続けていく言葉です。反面、これは歴史的な指標には使いにくい言葉の一つです。戦国時代の人にとってはその時代が現代だったわけです。つまり、特定の時代を絶対座標に示す言葉ではないという事が言えます。
私は不思議に思うのです。なにがって「現代詩」って言葉です。私には理解できません。書き手にとっては生まれた瞬間の詩は「現代の詩」であって、「近世詩」とか「中世詩」とか「飛鳥詩」とか「春秋戦国詩」とか「先古典期マヤ詩」とかその当時には呼ばなかったわけで。
ということで、私は「現代詩」という分類は嫌いです。分類することそのものを憎んでいますが、それは個人的な好みの問題です。でも「現代詩」というのはカテゴリーの名前にはお笑いなのです。というかその名前では分類できないじゃないですか?できます?
人は群れたがるものです。現実の人間関係が苦手な人が、たとえば詩を書いたとして、その詩が同じ傾向を持つ人と交感できる場があった時、「おれたち現代詩書いてる人〜」みたいな群れをつくって「ポエム書いてる人ぉ〜」とか「恋愛し書いてる人ぉ〜」とかとは違う群れだよ〜って言ってるに過ぎないんじゃないの?って思うわけですよ。群れるのはいっこうにかまいませんし、寂しい人が減るのはいいことなのでもっともっと群れるのは賛成ですが、現代詩って名前だけはいただけません。
私は普段、そういう感性の(現代詩書いてるって違和感なく名乗っちゃうような)人たちを「超」な人って呼んでます。まあ平たく言うとマヤのピラミッドを造ったのが火星人か金星人か議論しているような人たちです。ピラミッドは勿論、その周辺で生活した人が建てたに決まってるので、議論そのものがチョーなのです。詩も同じです、現代詩を書いてるんじゃなくってあなたの書いた詩が現代詩という群れに置かれただけなのです。。ポエムかネット詩か現代詩かなんて事よりも、そこに作者が居てそこから発せられたものであることを一番深掘りしなくてはいけない。くだらない分類の議論に才能を削らないでもっともっと自分自身を掘り下げていくべきなのではないでしょうか。
あ、すいません。分類の議論がくだらないと思っているのは私だけかも知れないのでこれは言い過ぎでした。「〜時代」というのは分類ではなくて区分ですので、それを詩のカテゴライズに当てはめるのは不適切でした。お詫びして訂正いたします。