今ここにある現実
佐々宝砂
どこの誰のせいで、とは言わないけど、つーか言えないけれど、私はこないだからだいぶおかんむりで、イライラしまくっている。イライラを吐き出さなくてもそれほど精神衛生を悪くするということはないけれど、少なくとも、詩関連のイライラである場合、イライラの原因を解明し咀嚼し消化しておかないと、精神衛生ではなく詩の衛生上よろしくないと最近になってわかった。イライラを吐くのではなく、噛み下し飲み込み自分の栄養にすること。とりあえず今私がやりたいことはそういうこと。
イライラの主原因。詩とは何か、何が詩で、何が詩でないかということ。そんなもんどーでもええじゃないかよクソと言えばそれで終わりなのだけれど、つーか私はそれで終わりにしたくてしたくてたまらないのだけれど、どーもそういうわけにもいかないらしい。詩を限定したものにしたがる人は常にいる。読者に行間を読ませる想像させるものが詩だと言いたい人は、言えばよい。勝手に言え。でも、小説だってマンガだって、さらには映画もニュースも、行間を読ませる。スポーツニュースも政治ニュースも、その気になれば。
詩ではないとされるものに、詩のようなものは多い。少なくとも私には、全く詩と詩でないものの見分けがつかないね。
小説は自由だ。三流のエンタメ小説でさえ自由だ。限りなく詩に近いものや、カルテとしか見えないものや、そのほか異様な体裁のものであっても、許される。面白ければ、許される。詩はどうしてそうあってはいけないのか? どうして詩の方が不自由なんだ? 詩は自由なんじゃないのか? 何がどうしてどこが自由詩なんだよ、をい、言ってみろってんだよ。詩のような小説が許されて、小説のような詩が許されないのは、いったいなぜだ? いいかげん面倒になってきたので、そろそろ詩をあきらめて小説を書こうかという気にもなるのだが、しかし私は詩が好きだ。小説めいた詩の方が小説より詩より簡単だから書いてると思われると癪に障る、私はあえて小説めいた詩を書いてんのだ、わかるかよ、ええ、「あえて」だ、「わざと」だ、「作為的に」「故意に」「意図的に」書いてるんだよ、その理由がわかるのか?
私の原点を思い出さねばならない。
私は、現代詩人ぶったミナサンに読んでもらいたいわけでねえのだ。
現代詩人受けする一流っぽい詩を書く人は書けばよい。私はとめない。それどころかべた褒めにほめちぎってやろう。これは矛盾ではない。私の内的分裂ではない。なぜなら、彼らは私のライバルではないからだ。まして敵ではない。彼らは一流っぽい内輪の世界に安住しておればよい。私は飛び出てやる。私のライバルはマンガだ、ゲームだ、ドラマだ、流行の歌詞だ。一般受けするものを目指してると思われるのも癪に障るが、そう思うなら思ってもかまわない。私は一般受けするもんが嫌いではない。私の趣味にかなうなら、どんなに一般的でもフツーでもありきたりでもええわい。
ただ、私の趣味とゆーのは特殊ではあるね、現代詩人たちとは違う意味で。
イライラのもうひとつの原因は、「詩に作者が見えない」という、あれだ、あれ。私の詩に作者が見えないとゆーやつはね、目が見えないの。でなきゃアホなの。行間どころか文字自体が見えてないの。目医者に行きなさい目医者に。「蜘蛛」だの「鬼女紅葉」だの「クトゥルー」だのを題材に選ぶ点で、すでに、私という作者は詩のなかにいるのだ。否、むしろ、日常的な題材をとる詩を書いたとき、私はそこにいないのだ。そこにいるのは私の仮面に過ぎない。何度言えばわかるのか。わからない人には永久にわからないか。私のペルソナ、私の仮面、そんな退屈なもん詩に書いてどうすんの。
私にとって、今ここにある現実は、すべて、嘘だ。嘘の塊だ。みな仮面だ。私にとって最も大切な人も大切な風景も、それが現実である以上、嘘だ。私にとってすべてはひとしなみにどうでもよい。ただ私は現実に生きねばならず、現実の問題は私にふりかかってくるので、私は生きる上で現実を重要視する。
(2003年4月29日)