睨子問答 一『荒ら屋にまつろわぬものが爪の痕』
人間
一国一城一人の皇帝、腸捻典之に也ます朕。
帝たる朕のもの、尽力すれば為な疑問の民。
そ問答り打つ汝と朕、似たるの睨ツ子。
そ刻刻をば記録する〜諭す〜という、宵な一興でもある帷。
ここに一般公開を許可するので良い。頭の、汝も皆の者も記入する。遠慮要らぬ汝、また朕。
「疑問、質問、相談、意見、大にして声を言いたい」の事を、国民の。朕は「応え」る。
汝と共に考え、る見出、す応え、る朕のくわんぎである、とすら思う。
それに人民に国政に反映していくのに皇帝としてのに義務すらと考る。
寛大なる。汝の。どのような者にでも、ちやんと耳や目を傾ける朕。その勤しむの勤しむ。
恐れず、驕らず、ともども良い。真摯に在れば。もうそれで生きる。その愛で済む。すぐに止む。
訪れるにト或る晩、吐露す迷うり獰猛の子山羊、その素面酔いたわる彼、迎える朕。
「初めまして、突然の訪問失礼致します。
私は琵琶朗吟を生業とする者、名は序口葦平衛と申します。
我が麗しの帝よ。一体”詩”とは何なのでしょうか。
喜びも悲しみも共に幾歳月、凡百の知人や学者を尋ね歩き、
謗法とは知りつつも方々を駆け回り鋒鋩と問い詰めましたが、
皆示し合わせたかの様に言う事が食い違い、全く要領を得ません」
上がる溜飲をば冷し麦茶で飲み下し、撒き散り話す素面酔いたわる獰猛の子山羊、
彼の収縮するる鼻根筋と皺眉筋の渓谷に汗のような鯉のような汗が落つる、応答する朕。
「朕の元に来た汝。語る権威者や万の図書のそを信じらずに。
又は自家製で御手製の御観念にも籠もらずるに。
何も持たぬ汝、整った話し合う準備ある者と見受ける朕」
素揚げの油蝉が鳴き声も竹林の靴底に引水しく、皮膚と乾くる汗の淡り切る口火。
「如何にも蛸にも海鼠にも、全く仰る通りです。
自らや希望する物を権威と吹聴して他を蔑ろに扱き下ろしたり、
手前の武器(それが言論であれ、兵器であれ)で相手を押し殺す事だけを考える連中ばかりで、
私は本当に辟易としています」
ねつとりの微風に数十匹の泳ぎ子海亀が葛団子と化き、細やかなヒレの羽音を置く枕に肘掛に。
「して、そに答うる朕かも知れぬ、あるるま答わぬ朕かも知れぬ、
どちとも知れぬ今の唯、共に一歩ずつずつ考う事に契りを交わす慎重の汝か?」
獰猛の子山羊、げに訝しげに頷く、茹だり蒸す熱帯夜の挙動そのものの。
「何故に”詩”を問うの汝か?その何か意図は。
《”詩”とは何か》と問うは何故か動機の?」
新米大根役者の隈取を似た半月の八つ裂く四つ折り十六夜。
「それは私の生業であり、且つ又、目指している真理の芸術です」
振る鈴虫も茹だり鳴る、蠱惑るサステイン堆く高く。
「例う、人生とは何かと問う者、そ考むそ時、
”実際の人生”と”言葉の人生”を分かちて無理に矢理。
言わば、思考の顕微鏡を用て後者へ接物レンズをば当て「人生とは何か」と問う、
揚句、接眼レンズを覗きつつる曰く「空が無い」と仰る、トドの詰まりに手詰まり息も詰まり。
かく同様、書かぬで考える、考えるで書かぬ、その時指す汝の”詩”とは。何であるろか一体」
歯軋らす子山羊の余剰利潤を拝借しつつ影のみの雑踏の傍聴者に語る野良の蚊に会釈する朕。
「それは、問うても意味が無い、という事ですか?」
利に従ゆバジェットによりけり適正在庫に満たればくぐもる朕の空腹虫に一瞥す子山羊。
「そは言ちらぬ。実際と言葉の差異、そ見る時、聞く必要のある、そ分かつ汝自身からの」
鎮座まします部屋隅に薫らる浅黄の除湿剤、代謝新陳の健全が世界の小さな救み。
「私は”詩”の実際が知りたい。つまり、真実が知りたいだけです。
勿論、辞書で引く《美的感動を包含した韻律文》という技術的な意味ではありません。
そして『詩を作るより田を作れ』等と凡俗な回答で誤魔化す事はご遠慮戴きたい。
いずれも、物事に関わらぬ路傍の人間が言う言葉です」
薩摩人参に浮む人面瘡、麹味噌煮込むこと美味し尋常に非ず。
「了解す朕。然して、”詩”とは何か、とう問いの汝は、
答えを含むでおるのでなかいか既に、即ち求むものそれの汝の。
文豪や学者、近親者や友人、各々が各々の言い方で発す意見、
あるいは文献や教科書や演劇や映画やスーパーのチラシや俗説、
その中より汝が満足に値すものを選ぶ恣意的動向の汝、そ類の問いではなかと?」
窓の外、長い首の退屈が群れにて高い虚栄の新芽を食むでいる、のを見る朕。
「その懸念は最もです。それらを選び、心酔した事もあります。しかし、
先ほどもお話したように、私はそれらの虚偽・欺瞞・誤謬に気付き、
うんざりしてからというもの、全てを捨ててきました。
私は琵琶朗吟師として、人間全体に触れ得るような普遍的な詩を書きたいのです。
より詳細に、そして単純に言うならば”いい詩”とは何か、という事です」
発泡すがる濁酒が毛細花火、前部泉門にひよめきがひよめく咽喉の子山羊。
「よし:あし、その区別・測定・評価・判断するも又、恣意の汝ではなかと?
そ恣意は、書物や伝聞のやる知識や経験や習慣という過去に依りはせぬ汝か?
物の技術的はそに良き、せねば建てざらぬす、せねば発展せざらぬす。
然して、物になきては、過去によりて真実を知るを、得らるる汝ろか?」
獰猛の子山羊の鼻息、毛羽立つ血気、眼光が座敷牢童になりて走り回る為、その首根むんづ掴む朕、
そまま石亀這う水甕に落とするに、実に仲良く遊ぶ、そ様子を見やる。
「得るにするは、そを《既に知っている》のある必要。兎知らずて兎狩り出来ぬのよに。
知つている”真実”を汝か?でなくば”真実”を知る者に出会う事はあれるかの?
知つている”詩”を汝か?して、そを知らずば書けぬのが”詩”であるか?」
微笑まそしハエトリグモの見詰めるに、徐々に膨張する重点、気のせいのせい。
「グル(指導者)や聖者、優秀な学者や天才的な詩人は知っているのではないでしょうか」
無垢の生娘に似た座薬形の左手中指第一関節を右鼻穴に匿い、右掌で左臀部を温みつつ、応答する朕。
「何により”知っている”と言う汝か、また断言す彼らか?」
不敗魔が積も上ぐす足場る径路の和をば、明後日向こうを出歯亀試まる裸出歯鼠。
「何事も勉学、努力、追及によって結果を得る事が出来ます。
それらが宗教的には”修行”と呼ばれています」
千羽の折鶴を吊るす天井の満天に、扇ぐ左団扇で揺れに喜ばす目の朕と子山羊。
「もっと最も事実もも、その側面も然り也のり。
然して”こうすれば、こうなる”と知り既に結果へ行うは、規定する行程にあらずか?
知る既に向かう結果は、真理たろう果たすかて?」
「では何を信じろというのですか」
「信ずよが信ずめが、そはそと在る。
共に解す理で瞬時に捉ぶ汝と朕」
「偉そうに野糞野郎が!どうしろというのです!」
「”偉そうに”とは作為す印象の汝がなる、そに非ずは朕にある。
”なにをしろ”や”なにをするな”は規定の行程でありる、程度の各々のあるに修行の。
もしもの汝に朕らば、なにもしないをするのが朕とある。こは、しろ、するな、に非ず」
「八釜しいわ知障!失礼ですが、帝のお言葉は禅問答的な言い逃れとどう違うのでしょう」
「通り仰せの、違わぬ、言葉上は。全く然し別む、違うる、実際は。
こは朕す所を指す朕、上も下もの言葉無くも在る所。
汝の己、生きつ戻りつ言葉を行いを見聞きする慎重、そのなにもしないを言う朕」
「浅学菲才無知蒙昧闇雲若輩の私にはまだ分かりません。
また訪問させて頂いても宜しいでしょうか」
「時期よ頭脳よの問題に非ず。
いつでも参るを良しなに。遅む今宵、泊まりゆく汝か?」
朕と安堵ろ子山羊が十文字にて雑魚寝、良き仲に無き帝も民も、しかるに息苦し朕。
刺さむ朝陽に翳るオジギソウの蕾を見詰まる眠りなむ朕。
〜 了 〜