つぎに
影山影司

[牛乳を一滴垂らした珈琲に、牛乳が散らばっていく。散らばった牛乳は気まぐれに集まったり、散らばることに飽きたりしない。珈琲が冷めるのに従って……着実に拡散する]


 おとなしく大工をやってりゃよかったんだ。モルグルはまだ日も昇りきっていない今、本日六回目の後悔をした。ピーポーの一生はリーダーによって管理されている。明日食う朝食も、今晩見るテレビも。それに何の疑問ももたないが、大工になるのは嫌だった。かといってピーポーを辞めるのも、学問を修めることも嫌だった。(特例として研究の道に進む事は自由とされている)
 たまたま適性試験で合格判定をもらった。それだけで戦地に立っている。逃げ込むならもっとマシな所へ行けば良かったんだ。七回目の後悔をする。

 背中の通信機をガチャガチャと揺らしながら先を走る軍曹について行く。ぐるぐるにまとめた有線がリールからだらだらとのびていく。コレを辿れば不味い飯と堅い寝床の我が家に帰れる。急ごしらえの粗末な家だが、敵がいないだけまだマシだ。モルグルはここが嫌いだ。朽ち果てないビル群。歪んだアスファルト。大流星時代以前の建造物は奇妙なほどに頑丈だ。いや、固定されていると言うべきだろう。時が流れ、地軸が傾き地盤が動き、大地が歪になっても崩壊することなく姿を保っている。
 大昔はピサの斜塔、なんてものがあったらしい。こんな傾いたものの何が良いんだ。糞、イライラする。軍曹は薬を分けてくれなかった。不安定な感情が心の基盤をぐらぐらと蝕むようだ。

 折り重なって倒れたビルが行く手を阻む。軍曹は何も言わずに這いつくばり、開けっ放しの窓を潜った。自分もついていく。建物の中は全てのものが九十度傾いている。床に手をつき壁の上に立つと、自分の視界が狂ったような気がする。朽ち果てた家具を蹴飛ばして軍曹が走る。陰鬱な無精顔の癖して、妙に生き生きとして見えた。「通信兵」「何でしょうか軍曹」「昇れ」前には壁があった、人一人分ほど上に、扉がある。軍曹は両の指をガッチリと組んで、両手をバレーのように構える。「了解しました」その手を踏んで、跳んだ。ドアノブに掴まり、捻る。そのまま壁を蹴って、反動でドアを開けてするりと入り込んだ。
 扉が閉まらぬよう、体でつっかいをしたまま軍曹を引っ張り上げる。
「行こう」
 横たわった廊下を走る。銃声は止むことなく続いていた。


散文(批評随筆小説等) つぎに Copyright 影山影司 2008-09-13 02:39:52
notebook Home 戻る