妄想家はかくして創られき【詩とは何か祭り参加作品 〜ちびっこからの付録〜】
北村 守通
思い起こせば、北村家には幾つかのルールがあった。
一つ 『チョコレートは食べていいのは一日3かけらまで(板チョコ)』
理由は、チョコレートの食べすぎは鼻血を誘発するからだそうだ。育ち盛りの反抗期でも何故だかこれだけはきちんと守っていた。なお、東京の大学に進学して一人暮らしを初めて11ヵ月後に、一人暮らしなんだから好きなだけ食べてもいいんだ!ということに気づき、実践した。1時間後に血の海が広がった。
一つ 『漫画は買わない』
幼少期のころ、これは辛かったように記憶している。同級生たちが色とりどりの華やかな漫画を読んで、会話しているのに私はそれについてゆくことができなかった。本で買ってもらえたのは学習書と図鑑である。ただし、怪獣図鑑だけは『図鑑』ということで私としてはめずらしく理屈をこねて買ってもらった。ただし、漫画はまったく買ってもらえなかったかというとそうではなく、『ドラえもん』が一冊、『まことちゃん』最終巻を一冊、『ウルトラマンタロウ』が一冊の計三冊であった。
無いもんならば、作ればいい!幼いながらも決意した私はテキストの中に、ノートの片隅に新しい怪獣や怪人、スーパーマシンを開発しては書き込み、なおかつ怒られないように消去を繰り返した。また、『ウルトラマンごっこ』や『仮面ライダーごっこ』ではそれらのオリジナルキャラクターをデビューさせ、演じるのは勿論私だった。2次元から3次元への昇華である。3次元の魅惑を覚えた私は、こんどはオリジナルキャラクター達を造型で表現することを覚えた。材料は・・・トイレットペーパー・・・飽きたら便所にポイです。これなら親にもばれない・・・はずだが、トイレに座る時間が異常に長いので親に不審に思われたことは数知れずである。
一方で所持することを許された図鑑の類も私の妄想の材料となった。怪獣図鑑に出てくる怪獣たちの中にはもはやその暴れっぷりを確認できない奴らがいっぱいいたので、その人相やスリーサイズ、履歴書を読みながら、こいつらはこんな暴れっぷりだったんだろう、と勝手に話を作って想像の世界で映画館を開いた。また、水棲生物が好きだった私は自分の土地では決して見ることのできないであろう魚たちの泳ぐ姿を想像し、図鑑にのっている全ての魚たちが見たくて世界中を飛び回りたいとさえ思っていた。(しかし、ミツクリザメが東京湾に居るとは誤算だった・・・釣っておきたかった、あの深海怪獣ジグラみたいなやつ・・・)
はっきり言ってその行為はエロ本片手に甘美な世界を想像して・・・と一緒です。
ちなみに漫画に関しては、本屋で立ち読みすればいい、ということにも気付きました。しかし、あんまり長いことそれをやると怒られることも知ったので、より早く読む、という習慣も身に付けました。いや、必要は発明の母とはよく言ったものです。
話が脱線してしまった・・・
そして大学に入ってから、合唱団に所属すると前にも書いたように様々な詩と出会う形となりました。作曲家たちの創造意欲と合致する作品たちです、衝撃的です。これはいったいなんなんだ?となります。それまで国語の授業でやっていた『作者の意図を正しく読み取る』を実践しようとします。団員たちが皆で頭をひねって考えます。何故この曲想でこの言葉に当たるのか、考えようとします。(本当は、必ずしも詩に合わせて曲があるわけではないのですが)らしいストーリーが出来上がります。しかし、それが本当に正しいかどうかだなんてわかりません。確信はあれど確証はないのです。なして?だって僕らは作者じゃないから。
そのことに気付いたとき、『この詩にこめられた作者の気持ちは?』という問題提起は果たして詩を読む上で絶対なんだろうか?という疑問に陥りました。いや、本当はきっと必要なのでしょう。その完全なる答えを出す、ということではなく、「こうなのだろうか?」という問いかけを何度もし続けることが必要なんだと思います。絶えず自分の視点を疑うことこそ絶対なのかもしれません。そして、その時その時の自分の視点を楽しむことも絶対なのかもしれません。
その頃、自分も丁度詩を描き始めた頃でした。なんとなく、草野心平になりたかったり、横溝正史になりたかったり、レイモンド・チャンドラーやダシール・ハメットになりたかったりといった師と仰ぐものも居ない、真似事です。ただ、「これらは自分の言葉ではない」ということだけは痛感していましたので、自分なら何を創るのか?ということで描き始めました。ここで、幼少の頃の自作怪獣ごっこの経験が生きてきました。描く、という行為に全く何の抵抗もありませんでした。その最初の頃は「自分のこめた世界観を読み取れるものか」なんていう、今にしてみれば妙ちくりんな姿勢もあったりしました。しかし、そのころから自分の心情を前面に押し出す詩は描いていませんでした。正直、自分の気持ちを分かってくれ、という願望はもともと持ち合わせていなかったので。どちらかというと人の気持ちをどう考えるかの方が私にとっては優先課題でした。
だから、自分の気持ちをどう伝えるかだなんて考えもつきませんでした。
さて、その妙ちくりんな姿勢を矯正し、「言葉はデジタルで詩にはいっぱい穴があるんだ!」なんて思うようになったきっかけとなった詩は三好達治の『アンファンスフィニ』でした。この詩は二人の作曲家によって曲を与えられています。一人は木下牧子、そしてもう一人は多田武彦によってです。全く別の作曲家が創っているのですから、当然曲想が全く違います。私達は木下牧子の曲バージョンを歌ったのですが、多田武彦バージョンを聴いたとき、確かにこれもありかな?と感じました。
二次的な創造性、というものの存在を考えるようになったのはこの時からで、詩は、いえおおよそ創作物の万物は作者の意図を考えようとすることは勿論のこと、その作品の中に発生しているストーリーその物を純粋に読み手自身がどう捉えるかが必要なんじゃないか、と思うようになりました。
ハードボイルド探偵小説の作家の一人、ロス・マクドナルドは自身の作品の「リュー・アーチャー」という主人公のモデルについてこう語ったと聞きます。(正確にはモデルについて問われたインタビューに対する本人の回顧なんですが)「アーチャーは私であり、私はアーチャーではない。」そして私達はリュー・アーチャーのシリーズを読んでいるとき、リュー・アーチャーになって事件を追い、様々な人間模様に振り回されるわけで、ロス・マクドナルドを読んでいるわけではないのです。(勿論、間接的には知らず知らずのうちに読んでいるのですが。)作者の意図を考えるのはこうした作品を(詩や小説、あるいは造形美、いやなんでも)純粋に自分の中で楽しんで、その後から「どうしてこんな作品を創ったんだろう?」でいいと思うんです。乱暴かもしれませんが。
だから、自分が詩を描く、書いたものを発表するという行為についてもこうあって欲しいな、と思っています。だって「北村さんは○○な人ですね」なんて言われたら、自分の性格判断されているみたいで冷や汗物です。(いや、それはそれでしょうがないんですが。)それよりも「人魂怖い!」なんて言われた方が実に楽しいです。してやったりです。同時に「ここつまんない」は今後のためにもっともっと貴重です。
また、自分自身をシンクロさせてくれる様な作品に出会えたらなぁ、とも思っています。
そりゃ本で、活字を読む努力をせい!と言われそうなのですが、なんか難しすぎて意識を失ってしまうことが多々ありますので、やっぱりこちらが玉石混淆で、それ故に自分にあった作品と出会えるチャンスが多かったりしてますね。(ありがとう、現代詩フォーラム。いや、本当に。)
なんかベタなことを仰々しく言っているだけになってきたな・・・
何を今更、と言われるのかもしれません。私が語れるのはせいぜいこの位です。
でも、最後にやっぱり自分のスタートラインを確認しておきたいなあ、ということもありまして、この場を借りて書かせていただきました。
長文・駄文失礼いたしました。