詩とは何か【詩とは何か祭り参加作品】
北村 守通
言葉というものほどやっかいなものはない。
これだけありふれて、一番使っているものの筈なのに、いざ真面目に面と向かい合ってみると、なんてデジタルな奴なんだ、と閉口してしまう。わかり切ったことではあるけれども、結局人間の心情だなんだというアナログな状態を、無理やり分割しているものだから、それらを再び結合させてみても(文章という連続に直してみても)必ず穴が発生して「こんなのじゃぁなかった!」となってしまう。ただし、その穴の存在を利用すれば、とんでもない嘘がつける、ということも有り得るわけで、そうした「リアリティ溢れた意図的な嘘」に到達できることが、目下のところ僕の目標とするところなのである。
言葉とは、写真の様なもので、写すという行為は誰にもできる行為(操作方法知っていれば)なんだけれども、撮り方で大きく差が現れてしまうものなのかもしれない。
それらをより細かく連続させて並べていけば、よりリアルな動きを再現できるのだろう。丁度映画等の動画の様に。そして、そうした連続が小説だとか、随筆なんじゃないかな、と単純に考えたりする。そうした連続による再現は、観る人や読む人に動きの方向性を指定しているわけで、どう捉えるかはばらばらになるとしても、共通の動きを伝えることはできるのだと思う。
一方、俳句や川柳などは連続させるだけの物理的なスペースはないわけで、写真単体に近いのかもしれない。そこには当然、動きの方向性に対する指定はないわけだから、観る人や読む人はそれぞれの判断でそこに動きを加えていくことになる。だからこそ、そこには現物以上の空間や、時間、動きが発生する可能性をより多く秘めているし、逆の場合だってあるのだと思う。
詩はその中間層に位置するものなのかもしれない。動画としては動きがスムーズではない「ぱらぱら漫画」の様なものなのか?もしくは動きの方向性を示唆するかの様に並べておいた複数の写真といったところだろうか?だからこそ、そこにはより多くの穴が存在し、その穴の中には様々な可能性があるのだと信じたい。その程よい穴の存在と、程よい動きの方向性があるからこそ、二次的に発生する創造性を引き出しやすい存在なのだと思う。だからこそ音や写真、絵といった他の表現手段と結びつきやすいのではないだろうか?
そう考えると、詩とは書くことはもちろん、読む人にも様々な楽しみ方を提供できる存在であると思える。
これも、僕が「詩」に引き寄せられようとしている一つである。
ただ・・・
理屈の上ではそうだと思っていても、やはり人生経験の少なさの悲しさか、読解力もなく何度となく挫折し、創作力についても自分の器の小ささや感性の鈍さを痛感させられています。無知無理やらぅの遠吠えでしたが、お付き合いいただきありがとうございました。