「感性の論理」はどこからくるのか---詩の非論理的な領域を読むということ、詩の非論理的な領域を書くと...
N.K.
--- 誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるきりです。自らの内へお入りなさい。リルケ
読むにせよ書くにせよ詩には詩固有のわかりにくさがある。わかりにくさは何によって読者に対してほどかれていき、伝わり、個々の詩の理解が共有されていくのだろうか。一つの詩を詩人とともに読み解いていくことを通して1 、詩の「わかりにくさ」を読み書きいずれの面でもより身近に引き寄せようと試みたい。詩を書くために、まずは詩を読まなければならない。
「詩の言葉に即しつつなるべく一般性を持った問題について考える」ことを意図しつつも、大岡信は、言わば各人の言語能力の保持を前提として、一方で言葉の持つ伝達性あるいは相互主観性を保証するが 2、他方で「言葉というものは完全に伝わるものじゃないと思います。」3 と言葉を扱う難しさを述べる。言葉を扱わざるを得ない「詩」についての論が、言葉を使用することの言わば不可能性を意識することから始まるのである。
しかし「とにかく普遍的に伝わる部分」(意味の面あるいは論理的な意味の領域)をもつ日常生活の中での言語と感情の面(非論理的な意味の領域)に分け、「この感情の面というのが、言葉ではなかなか伝わりにく」く、散文に比して「詩の場合にはこの非論理的な意味の領域が大きい」と「詩の伝わりにくさ」に「感情の面」つまり「非論理的な意味の領域」という具体性を纏わせていく。4
では、「感情の面」つまり「非論理的な意味の領域」から「意味の面あるいは論理的な意味」へとどのように橋渡しがされるのだろうか。詩をどのように読んでいけばよいのだろうか。大岡は日常生活での言語から逸脱した非論理性を個々の詩を書いた詩人の感受性で補完することによって、その詩人の「感性の論理」 をつかめるようになるという。
「感情の面」つまり「非論理的な意味の領域」という混沌の中にある道筋がつく(こう言ってよければある種の論理的な意味が見出される)と、驚くべきことに、述べているのである。そうであるならば、翻って、そのような伝わりにくい部分をどのように詩に書いていけばいいのだろうか。「感性の論理」5という日常生活の中での言語では困難な補完作用を詩人たちはどのように、しかも普遍性とともに獲得できるというのだろうか。おそらく自分自身が詩を書くために詩を読んできたであろう詩人でもある大岡ですら「詩というものはどこまで正確に書こうと思っても、どこかにそうでない部分があって、しかもその部分が人を魅惑するんです。」6 とあっさり「正確ではない部分」が余剰として存在することを一般的に指摘して、これから詩を紡ごうとしている詩人の卵(あるいは私のようななりそこね)たちを突き放す。
書くことの直接的な助言において詩人たちを突き放すと思われる一方で、具体的な詩の読み解きから書くことへと論を進めようとし、「一つの語をどう読むかによって詩全体の意味が変わってしまうという例」7 として山村暮鳥の「岬」を取り上げる。
岬の光り
岬のしたにむらがる魚ら
岬にみち尽き
そら澄み
岬に立てる一本の指。
大岡はこの詩に対するある解釈を批判的に検討して、詩人の一つの「感性の論理」でこの詩を読み取ろうとする。
その大岡の批判するある解釈とは「岬の光り」と最後の「岬に立てる一本の指」は灯台であり、鳥瞰的に眺望された岬の風光を表していて、それが小さく、かわゆらしく、清らかにしずかに感じられるとし、暮鳥はキリスト教の伝道師をしていたことがあったので、灯台はキリストの教えであるとする。だから岬に「みち尽き」てとは、そこから更に先の大洋、キリスト教儀のもっと奥のことは知るよすがもなく、ただ灯台の下にまで慕いより、群がるまでであるとする。「岬にみち尽き」には、聖書を何度となく読み返し、神のみ心をもっと更に知ろうと願った、そして聖書記載の事柄にとどまるほかなかった牧師暮鳥の、人間の限界に気づいたあるさびしさがよく現れているとされる。
この解釈に対して、大岡は語義の解釈から批判的な読みを進めて、「岬の光り」の「の」は主格を示し、「光り」が動詞であり「岬が光って」との謂いであり、魚もキリスト教の教義(灯台の光)に慕い寄るわけではなく岬の下に群れるのだと解釈をする。岬が光ってその下に魚たちたちはむれ、「岬にみちは尽き、空は澄み、そして岬に一本の指が立っている。」 8と風景を正しく捉えなおす。私にとってはここが非常に大切なところと思われるところで、「とにかく普遍的に伝わる部分」(意味の面あるいは論理的な意味の領域)であり、こういう箇所を誤りならばともかく恣意的に解釈することは、かなりの力業としか思えない。
さらに大岡は「山村暮鳥という詩人を全部読んでみて、やはり違うんじゃないか」9 とたたみこんでくる。暮鳥という人は「一本の指が」岬に立っている。それをまっすぐに見た人だと思うんです。」10 私がこう付け足すのは蛇足以外の何物でもないが、慧眼というしかない。
それでは、この詩を解釈する際、大岡が用いている「感性の論理」とは何であろうか。大岡は大正4年ごろの一群の若い文学者や美術家に見られた「光に対する信仰、憧れ」という潮流に触れつつ、より直接的には白秋の詩である「白金之独楽」中の「輝ク指ハ天ヲ指シ」の部分を挙げる。その部分に暮鳥は感動したとだろうとし、「輝ク指ハ天ヲ指シ」というのは一つの精神性を表していて、その意味で普遍性がある詩の非論理的な意味の領域と普遍性を橋渡しするのである。そして「岬そのものが光っている。また指が岬に一本立っているというイメジだけで、すでに心は満たされるものがあります。」11 と述べ,以下のように結論付ける。
「言葉というものは作者の作品をある程度読み込んでいくということと、その言葉がもっている文法的な意味も含めて、言葉のひとつひとつが持っている粒々をきちんと見分けることが大切なことだと思います。詩を書く側は、そういう粒々だけは、頭の中にあるイメジを正確に対応させ映し出していると思えるところまで、きちんと書いておく必要があると思います。」 12
詩を書くために詩を読もうとしてもがいている私のような者にとって、詩を書こうとする際に「言葉の粒々を頭の中にあるイメジを正確に対応させ映し出」そうとするしかないのだが、そのためには「言葉の粒々」と「頭の中にあるイメジ」をさらに見分けることが、自分の書く「言葉の粒々」と「頭の中にあるイメジ」を豊かにしてくれると思わされる。このように考えてさらに読む込むことが許されるのではないだろうか。なぜなら「そう書いたうえでも、なおかつ読む側ではいろんな読みかたをするものだからです。」13
ここまで、大岡が山村暮鳥の「岬」を白秋の「輝ク指ハ天ヲ指シ」という語句に触発されただろうとした詩人の「感性の論理」を媒介にして詩の非論理的な領域を読み解いてきたことを見た。しかし様々な読みかたの一つの徹底として、さらに「『輝ク指ハ天ヲ指シ』というのは一つの精神性を表していて、その意味で普遍性があるとは、いったいどういうことをあらわしているかと問いを立ててみたい。それは、それらを媒介する詩人の「感性の論理」の可能性として、ある解釈者によっては別様に媒介され、大岡によっては「もちろん大いに必要な面はあるけれども、それをあまりに強調すると、どうも無理な点が出てくる」14 とされた「暮鳥が牧師さんだから、あるいはキリスト教徒だから」という視点を掘り下げることが、その一つの可能性ではないかということである。一つの精神性および普遍性とまで呼ばれるもの、そして何よりも暮鳥自身が感じていたであろうリアリティを私には私自身へとその可能性を手がかりにせずには、引き寄せることができない。
岬が光ってその下に魚たちたちはむれ、「岬にみちは尽き、空は澄み、そして岬に一本の指が立っている。」と大岡はこの詩をパラフレーズした。そして「岬そのものが光っている。また指が岬に一本立っているというイメジだけで、すでに心は満たされるものがあります。」とした。
しかし、「指が岬に一本立っているというイメジ」とは聖書を何度となく読み返し、神のみ心をもっと更に知ろうと願った牧師暮鳥であるならば、そして聖書記載の事柄にとどまるほかなかった牧師暮鳥であるならばなおさらば、以下のように考えざるを得ないであろう。指とは何をするものか?それは「指し示す」ものである。指とはただの指のイメジでしかないのか?それはイメジだが、まさにイメジとして「指ハ天ヲ指シ」、「指し示す」ことがまさに牧師暮鳥の望む姿であり、それは「指し示す」暮鳥その人の姿とさえ言える。牧師といえども、否、牧師だからこそ、指し示す神の国は「『ここにある』『あそこにある』といえるものでもない。」15 のだからこそただ「空は澄」んでおり、指が直接さすものとはならず、澄んでいるとはリアリティに満ちていることに他ならないのである。「みちが尽き」たのはそこから更に先の大洋、キリスト教儀のもっと奥のことは知るよすがもないからでは、断じてなく、自己がキリストになろうとするのではなく、「指し示す」に至ったからである。だからこそ「心は満たされるものがあ」る。
もう一度「岬」を引いて以上をまとめ言葉の粒々を捉えなおした頭の中にある(私の)イメジに対応させてみる。
岬の光り
岬のしたにむらがる魚ら
岬にみち尽き
そら澄み
岬に立てる一本の指。
一つの解釈としては岬が光って魚がむらがっているのが教会(会衆)を、みちはそこに至るまでの道のり(こう言ってよければ歴史)を、一本の指が天を指し示そうとする暮鳥自身を、そらは澄んでいるリアリティを、あらわしている。つまり、この詩全体は、暮鳥がまっすぐに受け取った「この世界そのもの(のイメージ)」をあらわしているのに他ならないと私には思える。そのように受け取られた世界は一つの精神性その意味での普遍性へと凝縮し、暮鳥に対し生き生きと迫って来、それで暮鳥はうたれたのだと私には思える。
私は詩を書きたいがために、詩を読もうとした。そのためには詩の非論理的な領域以前では、意味の厳しい限定を、詩の非論理的な領域を読むためには各人なりの詩人の「感性の論理」を求めつつ読まなければならないと思わされた。詩人の「感性の論理」は、一言で言えば、各自の価値観の体系を徹底させ、豊穣なものにすることと思わされる。そうするものに「文学」という文脈も一つには考えられるけれども、もう一つの可能性は詩人が「深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げて」16 みたものを追おうとすることにあると思わされた。各人の価値観の体系を普遍性を勝ち取るまで徹底させていくことが、詩を書くものたちに自己の「感性の論理」を、つまり「感性」でありながら「論理」であるものを得させると思わされるのである。それはちょうど大岡がノヴァーリスの断章とともに言うように「すべての見えるものは見えないものに、聞こえることは聞こえないものに、感じられるものは感じられないものに付着している。おそらく考えられるものは考えられないものに付着しているだろう」17ようにである。
1.具体的には大岡信「詩と言葉」『詩・言葉・人間』1985
2.同上, p.127で以下のように述べている。「ここでぼくがある一つの単語だけを発して、むこうが言葉をもっているかどうかということはわかりません。こちらの言葉に文法によって統合された一つの体系があり、むこうにもその体系と対応する別個の体系があるということになれば、彼と意思を通じ合わすことも可能になるでしょう。」
3.同上, p.128
4.同上, p.129
5.同上, p.131
6.同上, p.141
7.同上, p.142
8.同上, p.145
9.同上, p.145
10.同上, p.145
11.同上p.149
12.同上p.149
13.同上p.150
14.同上p.147
15.聖書新共同訳 ルカによる福音書 第17章21節
16.リルケ 高安国世訳 若き詩人への手紙 p.15
17.大岡p.139-140