面白人生講話(10)
生田 稔

面白人生講話(10)

 この講話もおかげで10話となる。きょうも病院に睡眠薬をもらいに行く道々、残暑の暑さを身に受けつつ、考え続けた。人々と同じように、私も考える人である。若いころから考え込む癖があって、また考える人が始まったとほかの人に言われたものである。
 病院を出て考えつつ歩きやっと我が家の近くのスーパーの休憩所に腰を下ろし、ホッとしつつ携えていた文芸雑誌を読みだした。そこには愛ということについて書かれてあった。そして天地は有情であるともある。若いころから携わっているキリスト教と自分のかかわり方を改めて考えてみた。人はなぜ生きているのか。時折考え深い人々は問う。伝道をしていると、家の人出会った人々が質問する難問の一つである。
 その答えは簡単である、神から出て神に帰ることである。神は、神ご自身は、自分のために人を造った。おつくりになった地球に、創造の最後として人を造ったと聖書は記録している。この人を造らねばすべては神にとって無意味なのである。自分の作った山や川やあらゆる動物と生物の棲む自然を体感しその不思議さと巧みさを探り、あらゆる物語やさまざまの芸術そして科学は、人が作り上げたものに他ならない。人は無知であるがゆえに、それをなすことができた。無知のゆえに自分たちの知らない道を探りつつ歩むことができた。
 こういえば簡単に人間存在の意味を提示しえたと思われるかもしれないが、そうであろうか。そうではない。人々よもっと探せよ、休むな考えることを休むな。宇宙はだれのためにあるのか、悠久の宇宙は人のためにある。もろもろの星は人がやってくるのを待つ。
 そう思いつくとき、身震いがしないか。地球はすでに狭小である。宇宙に思いをはせ、希望を広くしよう。確かに人はパンのため働かねばならない。人はパンのみによって生きるのではないとは、もっともっと大きな意味を持っている。
 生きている意味をもっと追究せよ。夏の暑さにも冬の寒さにも負けない強い体と精神を持とう、自己に負けるな、屈すな。愛のゆえに人間を造られた神を忘れないように。ひとはひとりではない。神という確かな友がいる。我々が表面的に考えているほど神は我々から遠く離れておられるわけではない。私はいま非常な虚しさの中からこの一文を草した。
 神よこのわたしの叫びをどうか無にしてくださいますな。大勢の賢人や哲人や信仰と正義のため身を挺した無数のあなたの民を思い起こしてください。


散文(批評随筆小説等) 面白人生講話(10) Copyright 生田 稔 2008-08-16 14:02:10
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