美しい星
かいぶつ

 ここは美しい星、地球。日本‐東京に在る、とあるマンションの一室。間断なく聞こえるシャワーの音。しかしガラス窓が曇ってはいるがバスルーム内に人影はなく、ただ虚しくタイルへ温水が激しく叩きつけられているだけだ。窓が開け放たれたままの洋室。カーテンが大きく風に舞い壁に掛けられた抽象画のカレンダーは8月の頁を広げ床に落下している。テーブルには飲みかけの牛乳と読みかけの太宰。テレビは朝の天気予報を放送している。だが安価な音楽が流れているばかりで日本各地の今日の天気を伝えるキャスターの声が一向に聞こえてはこず、画面上部に晴れや曇りの意味をさす記号と地名の字幕が横にスライドしているだけであった。東京は午後から雨らしい。

 炊飯器のタイマーが甲高い電子音でご飯が炊き上がったことを伝える。しかしそれをしゃもじですくうであろう住人の姿がない。出掛けた痕跡も帰宅する気配も見当たらず、余りにも体温が乏しく閑散としている。外はどうだろう。駅へと続く並木道。いつもなら出社するサラリーマンと学生達の忙しい足音で独特の雰囲気を醸しているはずだが、銀杏の葉がときおり風に吹かれ乾いた音を鳴らすのみで風が止んでしまえば静寂が全ての景色を一息に飲み込んで行く。
 誰かが落としていった赤いスコップ。しかし落ちているのはそれだけではなかった。カバンや携帯電話、自転車、傘など並木道は数多もの落し物で埋め尽くされ、首輪から紐を垂らした一匹の犬が植込みに鼻を押し付けクンクンと匂いを嗅いでいるだけの異様な光景なのである。無人の車が渋滞の列をなし、無駄な明滅を繰り返す信号。街全体がまるで安らかに突然死してしまったように沈黙している。

 いったい人はどこへ消えたのだろうか。いったい何故、人だけが世界を置き去りにしたまま忽然と姿を消したのであろうか。先ほどの首輪を付けた犬が植込みから勢いよく鼻先を離し少しぎこちなく二度吠えた。そして何かに気付いたようにどこかへ走り去り、木葉が風にざわめいた。

 ここはとても美しい星。
 それは地球と呼ばれ人間と言葉に支配されていた悲しい星。


散文(批評随筆小説等) 美しい星 Copyright かいぶつ 2008-07-04 06:02:00
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