感動について
パンの愛人
われわれにとって感動が重要であるのは、それが日々のルーティーンで鈍磨したわれわれの認識や感覚をふたたび新鮮なものにしてくれるからである。これはとりもなおさず、感動とは非日常的な行為であって、われわれの生活が情念だけで成り立つことはできないことを意味している。しかしだからといって、感動と無縁な生活というものを、われわれが受け入れることができるかどうかは疑問である。
言うまでもなく、ひとくちに感動といっても、高級なものもあれば低級なものもある。深い影響を与えるものも、浅い印象に終わるものもある。なにからどのような感動を受けるかは、年齢や経験、教養の差によって異なり、その相違はなにも個々人の間にだけあらわれるものとはかぎらず、ひとりの人物の精神遍歴においても深い断絶を示すときがある。かのときにはかのときの感動があり、それはつねに純粋な一回性のもとにおとずれる。
このように感動というものが、不確かな土台のうえで演じられる行為であることを承知するならば、われわれは自分の感受能力を検討してみる必要性をも認めることであろう。前意識的な運動を意識的に把握すること。これは自分の個性の普遍性と同時に個別性を確認することであり、こういった知的努力が結果として、われわれの感受能力そのものをより豊かで鋭敏なものにすると期待してもいいとおもう。
もちろん、不徹底で偽りの修練はかえって有害であることは言うまでもない。安易な分析は、われわれの感動を形式的で図式的な説明におしこめてしまうことで、とうの感動を歪曲してしまいかねないのである。こういった危険性を留意しておくのは大切である。どのように反省してみたところで、われわれは自分の経験を完全に理解することは不可能であるかもしれない。なぜなら、われわれの経験はかならずしも論理的なものだとはかぎらないからである。
きみはきみの限界を超え出ることも、その向こう側を覗き見ることも許されてはいないのだ。きみはこの世界のOriginであり、きみとはすなわち、きみを取り囲む全世界の法則そのものである。