詩人の墓
亜樹
今日図書館で谷川俊太郎の『詩人の墓』を読んだ。
そうして大学時代谷川俊太郎を専攻していたというゼミの先生が、今の日本で詩だけで食べてゆけるのは谷川俊太郎一人だと言っていたのを、唐突に思い出したのである。
生粋の詩人が一人しかいない国で、私は詩を書いている。
それは当然飯の種ではない。私は一応、嘱託職員という名の、一年限りの契約であるものの、きちんとした仕事をもっていて、平日の9時から17時まで、毎日8時間働いている。その労働で賃金を得ている。その金で食料を買い、水道代電気代を支払い、保険料を払って、余った分で貯金したり本を買ったり、している。
書いた詩で生活しようと思ったことは、一度もない。
ずっとずっと昔は、もしかしたらそんなことを考えていたのかも知れないが、小学校6年生のとき、私はそうした甘えを棄てた。
それは私の書いた詩が県でちょっとした賞を貰ったときだったかも知れないし、金子みすゞの全集を借りてきて、食い入るように読んでいたときだったかも知れない。
けれども、それは確かに私が小学校6年生のときだった。
父が言った。
「それでは生活できんよ」と。
父は小学校6年生の娘が、すわ詩人になりたいと馬鹿げたことを言い出すのではないかと、先手を打ったのだ。
シビアな親だった。
けれど、そのシビアさに対抗するような情熱をもたなかった私は、「飯の種にならない」という父の言に、なるほどそうかと頷いてしまったのだ。
その日から私は詩人に憧れない。
谷川俊太郎のような潔さも、宮沢賢治のような高潔さも、金子みすゞのような果敢なさも有さない。
なので、私は詩人ではない。
中学にあがってから、私は詩を書くことをやめた。
理由は私のほか、そんなことをしている者はいなかったからだ。
クラスメートは皆、アイドルや流行のドラマ、ファッションに夢中だった。
金子みすゞなんて誰も知らない。
国語の教科書に載っていた『ぼろぼろな駝鳥』が、私は好きで好きでたまらなかったが、そのことを話せるクラスメートはいなかった。
授業で書いた短歌や俳句は、自信作だったが、クラスメートによる投票では一つも票が入らなかった。賞を貰った作品は、俵万智と狂歌をあわせたような、ひどく単調でくだらない代物だった。先生は「亜樹のはちょっと難しいな」と言った。それから私は書くのをやめた。
褒められないからやめたのだろうか。
認められたいから書いていたのだろうか。
それはやっぱり、詩人ではない。
高校に入ってからも、私は書かなかった。
やっぱり誰も詩なんて書いていない。
行事や何かで書かされたときには、皆が好きそうな、先生が気に入りそうな、当たり障りのないものを書いた。それは褒められた。賞も貰った。嬉しかったけれど、自発的に詩を書くことはもう私には出来なかった。
他の人と違うことはしたくなかった。
自分の考えなんて知って欲しくなかった。
可笑しな人だと指を指されるのが嫌だった。
ああやっぱり、それは詩人ではない。
大学に入って、2年目の春、私は今までにないひどい鬱状態に陥った。
ものを食べれば吐いた。
わけもなく泣いた。
左の手首には赤い線が増え、部屋の壁を拳が青くなるまで叩いた。
朝、鳥の声を聞きながら寝て、夕暮れ、赤い夕日をみて目を覚ました。
私の部屋は五階だった。ここから飛べば死ねると思った。
そんな日がしばらく続いて、ある日私は出席日数を稼ぐために大学へ行った。
キャンパス内をふらふらと俯きながら歩いていた。歩くのがつらくなって、何度も立ち止まった。食堂の裏の道で立ち止まって、不意に気がついた。
梅が咲いている。
枝の間から見える空が青い。
――吐かないと
そう思った。
頭の中で、ぐるぐると詩が回っていた。短歌だったかも知れない。俳句だったかも。
ともかくそれは、どうしようもない衝動だった。
頭の中の、それは、そのうちに胸遷った。ガン細胞のようにそれは広がった。溜め込んで溜め込んで、腐り落ちて醗酵しきった数多の詩が、歌が肉の代わりの骨の間にしみこんでいた。
その日のうちに私は文房具屋に行った。可愛らしくコンパクトな、――けれどもけして簡単には消費できない分厚さの、ノートを一冊買って帰って、汚い文字で殴り書いた。
いくつも。
いくつも。
ぐるぐるぐるぐる、ペン先のボールが鳴る音が聞こえるような気がした。
その日から私は詩を書いている。
時に短歌を。
たまには俳句も。
鬱状態は良くはならなかったが、悪くもならなかった。
ぐるぐるぐるぐる、ペン先のボールが鳴っている。
夜中餌付いていた声が、手首の赤い線が、壁を殴る音が、それに変わった。
鬱状態は続いている。
息を吸うように
自傷行為のように
生きていくことのように
私は詩を書いている。
それはやっぱり詩人ではないのだろう。
そのなりそこないのようなものだ。
生粋の詩人が一人しかいない国で、私はそんな風に自分を誤魔化しながら、詩のようなものを書いているのである。