入院記
渡邉建志

上智大学の門をすこし越えたところで、堤沿いの歩道は紫陽花が覆いかぶさってきて、誰もそちら側を歩きません。そこから先は、みんな上智大学側の歩道を歩いています。そもそも上智側のほうが広いので。でも、私は右側を歩きます。紫陽花の下をしゃがみこんで歩きます。下から見ると、花弁が根元から先端にかけて―とくに中心からすこしの間に―青色から紫色にグラデーションをかけていくのがとても美しく見えます。空が晴れていれば、その色が透けて見えます。周りの葉の色も気持ちのよい薄緑で、葉脈も透けて見えます。絵が描ければなあ!とこんなときに思います。私は絵が下手です。たぶん母なら教えてくれるだろうな、と思いながら、母とのコミュニケーションが億劫で、まだできていないのです。家族というのは難しいものだと思います。母なら綺麗に描くと思う。



紀尾井から四谷へ帰るときには堤の上の道を通ります。ここは絶好の猫プレイスで―2年前、Nと一緒にここを歩いていたとき、おばさんが猫に餌をやっているのを見たことがあります。たぶんそのせいでしょう―階段を駆け上がっていっても、階段に寝そべっている猫たちはびくともしないのです。あと、この道は恋人たちがベンチに座って上智のグラウンドを見下ろしています。Nと歩いたときはたしか夕方で、ベンチにいる恋人たちがなんだかとてもいい雰囲気で座っていたのを思い出します。私は今独りで歩いていて、もうNのことを悲しく思ったりはしないようになりました。Nと別れた後にものすごく好きになった人が独りだけいたのですが、付き合えなかったし、でも、昨日その人の顔を思い出そうとしてもぜんぜん思い出せないのでびっくりしました。鬱病は短期記憶を駄目にする場合があるというのですが、こういったことがらすべてを病気に帰していいのかどうか、いつも戸惑います。人格や記憶や「私」というものは鬱病によって変えられてしまうものなのでしょうか。私は私の怠慢や自己中心や誇大妄想を鬱病に押し付けてはいけないな、と思いながら、部分的に押し付けて生きているような気がします。去年やっとお医者さんから「あなたは鬱病です」と一言言われたときに、私はとても救われたような気すらしたのです。



病院では「真昼の悪魔」をゆっくり読んでいます。たくさんの鬱病の人がでてきて、みんないい人たちなのに、自分を傷つけていて悲しいです。私なんてたいした欝ではないのだと思います。鬱かもしれないと思った人は、この本を読んでみてください。薬の副作用が恐ろしく書かれすぎているので、あなたを薬から遠ざける危険があるような気がしますが―薬は早めに飲んだほうが私はいいと思っています。薬を怖がって悪化したほうが、あとで飲まなければならない薬の量が増えるし、そのぶん副作用も増えるはずですから。わたしはいま特に副作用というようなものがないです。飲んでいる薬が少ないからかもしれません。軽度の欝なのでしょう。でも長く罹っているのでずいぶんへんなこじれ方をしている気がします。自分を責め続けて寝込むとか、やる気がずっとないとか、そういうのはたぶん Aと別れてからずっとか、それ以前に大学にきたときからそうだったのかも知れず、よく思い出せません。Aという人がずいぶん底に沈んでいるのだなということを強く感じます。未だに、彼女のいった数少ない言葉や行動の理由と意味を考えます。そうだったのか、と気がついたりします。もう8年もたったことなのに。

 

病院は小さくて白くてきれいです。私は入院ということをするのが初めてなのですが、ここがその場所で本当に幸せです。ある意味私は今が人生で一番幸せなのかもしれないな、と思ったりします。もちろん、好きな人たちにはあえないし、会うと今はひどいことしかいえないような気がするし、ひどい印象しか与えられないような気がします。一人でずっと病院でだまって本を読んでいて、さびしいし、今好きな人のことをぼんやり考えて、悲しくなったりするのですが。窓からは上智大学とその教会が見えます。朝には教会の鐘が鳴って、私は悲しいような幸せなようななんともいえない気持ちになります。ヨーロッパみたいだな、と思います。いろんなところでいつもなっていた朝の教会の音、気持ちが研ぎ澄まされていくような。たくさんの見えない鳥が飛んでいるような。夜は9時に寝ます。朝は2時に目が覚めたり、4時に目が覚めたり、色々です。目が覚めれば、思考力と記憶力が病気のせいで犯されつつあるのを防ごうと思って(もとからないのかもしれませんが)、駿台文庫の「数学の計算回避の仕方」を解きます。昔から計算が苦手で、今でもやっぱり解けません。四則演算がすでに苦手です。でも、なんだか四則演算の本やゲームを買うのは、流行の軍門に下るような気がして(天邪鬼なのです)、あえて秋山さんの本をしこしこと解いているのです。一問解いて(必ず)解けなくて秋山さんの答えを写すのに、全部で三時間ぐらいかかります。これでよく大学なんか受かったなと思います。計算が終わると(終わらないことがたいがいですが)8時の朝ごはんの時間がきます。ご飯は3食とも、とてもおいしいです。すこし量が少ないことをのぞけば、まったく言うことがありません。

 

ご飯を食べ終わったら散歩に出かけます。四谷は本当に美しい町です。いままでこんなにきれいなばしょだとは思いませんでした。外堀公園の誰もいないいすに座って本を読んで、目を上げると、外堀の向こう岸には、緑の丘の上にお城のように雙葉高校が見えます。また、ここはヨーロッパのどこかの町みたいだ、と思います。プラハもザルツブルグもリュブリャナも、きれいな城が山の上にあったことを、描けないのにがんばって絵を描いたことなども思い出します。

 

今の季節、木を見上げながら、裸眼で歩くと、緑の形のはっきりしない葉たちの隙間から、乱視の目には、星のような光のぼんやりとした円が現れては消滅していきます。ゆっくりと歩くとその点滅は遅くなり、はやく歩くとまたきらきらといろんな場所で光が点ったり消えたりします。クリスマスの電飾みたいだと思います。近視で乱視の人にはおすすめです。きれいですよ。ただ、前に人や木がないか注意が必要です。それから、人の目を気にしてはいけません(笑)

 

雪が降るのをぼーっと見ていると、急に自分がどこにいるのか分からなくなることってありますよね。どの雪の粉に焦点をあわせればいいのか、目から来る信号をどう脳が処理しようか困っているのが手に取るようで楽しいです。あの、世界が急に3次元になったような(いや、3次元なんですが、自分の視界そのものが、3次元空間のなかに解けてしまったような)、感じ。焦点をぼやけさせて、雪をじーっと見たことがない人は、こんどやってみてください。1分ぐらいで変な感じになってきます。今日、木を見上げて、それとにているな、とおもっていました。






2006.6.26


散文(批評随筆小説等) 入院記 Copyright 渡邉建志 2008-04-29 01:26:58
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