こと・きり
クリ

もはや目覚めていられないほどのモルヒネが姉の血管を巡っていた
ほんの少しだけこちら側に戻ってきて、彼女は何か呟いた
 ラ・ファ・ミ  ラ・ファ・ミ
何度も何度も聞き返した僕は、それが「ロバさん、ロバさん」という節回しであることに気付いた
彼女が山田流の琴を習い始めたころ、家にあるものを利用して糸を弾くまね事をするときに口ずさんだ歌だ
何十年も昔のことを思い出しながら僕はベッドの脇でウトウトした
僕の名を呼ぶ姉の声で起こされた。なに、と聞くと彼女は言った。「切れちゃった」

ああ、僕には分かった。あのときだ。僕は覚えている。
姉の最後の発表会の最後の曲、その途中で琴の緒が切れてしまったのだ
袖から静かに先生が出てきて新しい糸に張り始めたけれど、もちろんすぐに替えられるわけではないし
演奏の邪魔にならないように調弦することも非常に難しかった
姉が改めて爪をはめ直したときには曲はほとんど終わっていた
姉は、家に帰ってから泣いた
僕もまだ子供だったので慰め方が分からなかった

今でもまだ分からない
僕は嘘をついた
ほら、大丈夫、張り替えたよ
姉は戸惑いながらも、混濁する意識の中で少し笑った
5時のチャイムが遠くに聞こえているときに彼女は目を開けた
「ありがとう」と言った。意識が戻ったのかと思ったがそうではなかった
僕が真上から顔を覗き込んだときにはもはや姉の瞼は溶けるように閉じられていた
でも彼女の最後の言葉が僕に、僕たちのためであったなら神に感謝する

姉の元配偶者は結局、病室に来ることはないままになってしまった
そんなものだ
それより、僕は嘘をついたのだ
姉はもう一度ちゃんと演奏したかったんだ、切れない糸で、もう一度最初から
やり直したかったんだ
でも自分ではどうにもできずに僕の名を呼んだんだ
僕は嘘をついた

両親が姉を誉め、妹がボロボロ泣き、当直の医師と看護士がテキパキと処置していく
僕は明るくなり始めた窓のカーテンを少しだけ開けて外を見た
いつもの朝になるはずの光と緑が目に染みた
家の庭はそれほど広くはないけれど木を一本植えるくらいの余地はある
桐を育ててみることはできるだろうかと考えた。50年後のために
それまで生きていられる見込みは薄いし、その桐の木から琴を作ってもらう術さえ分からない
けれど向こうで姉に会うときにはこう言えたらいいと思う
ゴメン、嘘ついた、だから、これ


琴・事 切り・桐・きり 事切れ


                                  Kuri, Kipple : 2004.06.25


未詩・独白 こと・きり Copyright クリ 2004-06-26 00:24:56
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