批評祭参加作品■詩のない批評:「反射熱」へ宛てて
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反射熱――りふれくと――Reflect
Reflection――反射、反射熱、影響、現れ、映像、鏡映

 谺を返そう。それもより大きく、その熱にやられないように大きな熱量をもって。“りふれくと”のエントロピーは増大していく。「われら」の温度を取り込みながら、それは渦を巻くようにますます増大していく。なるほど「ねじれ」がここにある。『われら』は『太陽と月の相関の間でねじれている』が、それはどのようにして見つめられるのだろう。そして“Reflect”という視線と“反射熱”という現象とはどのようにして共になりたつのだろうか?
 「投げられた風の速度」と「向けられた眼差しの距離」とは相関関係にある。このことは「投げられた−風」という系列セリーを任意の場におけるベクトル方程式とし、ある対象(ここでは仮にXとする)をその媒介変数として「向けられた−眼差し」という異なる方程式(2つめの系列セリー)と対応させること、またその「速度」も同じく対象=Xを関数とする速度ベクトルとし、その積分によって「距離」を求めることは可能であるように思われる。では、この「対象=X」とは何か。「投げられた−風の−速度」という1つめの系列セリーと「向けられた−眼差しの−距離」という2つめの系列セリーとを対応させ、それを共振させうる「声」である。「われら」の間にあるのはこの声の音、1つの系列セリーから異なる系列セリーへと送り出され、再び送り戻されるという「声」の“りふれくと”。いみじくもドゥルーズが語るように「リフレインは対象=Xに関わり、歌の節は分岐するセリーをなすが、そこを対象=Xが循環する」。この意味で「友」とはまさに「とも」という声の音であり、その音に「共」を聞き取ることである。そこには2つの眼差しがあり、そのような仕方で存在するのが「常に問う存在。問われる存在。」なのである。この「問う−問われる」存在が、その間を駆け巡る声にこたえること、そこにはまさしく「対話」があるのであり、その言説にエドモン・ジャベスのごとき「砂漠/流砂」が位置なき位置として、それも無償のものとして、”りふれくと”という現象として出現するのである。
 「向けられた眼差しの距離」が「問う−問われる」存在との間にある。では「鏡」に映るものにとっての距離とは何だろうか?宮川淳の言うように「距離は見ることの可能性」であるならば、鏡は「映った像」と「映るもの」のどちらにも属していない。鏡の表面には距離などないからだ。だからこそ、鏡は<見ないことの不可能性>であり、その魅惑だといったのである。「なぜなら、魅惑とはまさしくわれわれから見ることをやめる可能性を奪い去るものにほかならないのだから」。また、彼は鏡像とその対象との間にそのずれ「自己同一性の間隙」を感じ、「自己同一性の間隙からのある非人称の出現」を視てとった。そして、その「背後のないことそのもののあらわれ……」が、鏡の魅惑<見ないことの不可能性>だとしたのだった。だが“りふれくと”とはまさにその現象であり、そこにこそ非人称的な呼びかけはあるのだ。“reflection”とは「反射熱」であり、「他者への影響」、もしくは「現れ」であり、そしてまさに、そのような無数の呼びかけ・呼応の声の糸一つ一つからなる織り重なりテクストに現れる「映像イマージュ」なのである。『鏡……その裏で成長するもの』、その計画とは、織り重ねられたスクリーンの拡大、そしてそれに上映される映像イマージュと、そのドラマのプランplanに他ならない。したがって、『その裏で成長の計画はゆっくりと進行する』。それというのも、この織り重なりテクストの外において作者は書くのであり、演劇は舞台の裏で慌しく進行し、映像イマージュはスクリーンに投影される以前に撮られるからである。するとここに時間のパラドックスが認められるだろう。鏡の表面の裏側もまた表面であり、鏡の表面は今まさに出来事であるが、その出来事は鏡の裏においてすでに計画されたものとして「進行していた−進行している」のである。すなわち、次のように言わねばならない。現象・出来事としての“りふれくと”は時間を巻き込んでおり、それゆえそれは歴史における特異点として現れる、と。それは理念的には時間(詩史という時間)のいかなる性質にも属さない例外的なポイント、定義することのできないきわめて発散−分岐的なポイントとなるはずである。たとえ集束するとしても、それは『太陽−月』、あるいは『問う存在−問われる存在』という両極の特異性をあらためて証明することになるだろう。双方の承認をもってはじめて、「対話」は「対話」たりえるのである。どちらの場合でも、真の冒険が“りふれくと”から始められるのである。
 では“りふれくと”には危険が含まれていないというのだろうか。もちろんそうではない。そもそも“reflect”とはreもとへ-flect曲げることであるのだから。そして、『あなたの熱が私をあたため、私の熱があなたをあたためる』ように、「降りしきる雨が私を凍えさせる」ことも忘れてはならない。「冷たさ」もまた「熱」なのである。あるいは「逆風」、「邪悪な眼差し」といったものにさえ私たちは耐えなければならないだろう。しかし、そのような「平坦plainな戦場で 僕らが生き延びること」は、戦線をどこまでも延ばしていくことによって、むしろ共生へのプランplanを練ることになるだろう。つまり、上演されるドラマのシナリオを増やすこと、そのシェーナの独唱を混唱へと導いていくこと、眼差しの関数にひとつの定数を導入することetc…であるだろう。ただしそのような定数はreもとへ向かうものでなく、“りふれくと”もしくはその“りふれくしょん”を、それ視る無数の瞳へと向かわせられるような定数πやeであるべきだろう。……冒険には常に危険をともなうものである。スリルのないインディ・ジョーンズ、恐竜のいないジュラシック・パークなど考えられるだろうか? はたまた恋に落ちない007やイーサン・ハントのミッションなど誰が望むだろう? “りふれくと”とはそのようなスペクタクルアドベンチャーとして視られるべき事件なのである。
 さあ、冒険だ。危険や困難をただ耐えるのではなく、むしろそれを歓待すること。『健康な熱』だけでなくあらゆる種類の熱を『平和のうちに祝福する』こと。それが“りふれくと”である。その歌声は常に振動であるがゆえに『常に惑う存在』であるだろう。だが、その揺らぎとは常にハーモライズの可能性であり、また共鳴への可能性であることを忘れてはならない。『うたいながら生き、うたいながら生かされている』とは、まさにこの混声の歌声であり、歓待という歓喜の歌を歌うこと、その態度であるのだ。


散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■詩のない批評:「反射熱」へ宛てて Copyright 2TO 2008-01-27 20:26:27
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