批評祭参加作品 ■ 芭蕉庵にて
服部 剛
僕は今、滋賀県・石山寺の境内にある芭蕉庵にいる。
紫式部が「源氏物語」を書いた部屋が本堂の入口に
あったが、そこは観光コースの雰囲気で初詣の参拝
客が絶えず立ち止まるが、本堂から離れた場所にひ
っそりと建つ芭蕉庵に僕は魅かれるものがあり、微
かに開いた襖から忍び足で入り、明かり一つ無い畳
の部屋の机の上で、この旅日記を書いている。
微かに襖を開いた外の日向から、参拝客の賑やかな
話し声は通り過ぎ、砂利道の小石を踏む足音は、遠
い過去から遥かな明日まで近づいては遠のいてゆく、
時を越えて歩む旅人達の足音のように聞こえる。
かつてこの部屋に松尾芭蕉がいたと思うと不思議な
気持になるが、今から数百年前、確かに独りの俳聖
がこの部屋から、木々の葉を吹きすぎる風や、夜の
境内を淡く照らす月の光を観ていたのだろう。
元旦の今日、年の初めに行った松尾芭蕉の墓前で、
昨夜の大晦日に比叡山・延暦寺でいただいた木札に
書いた一つの願いを思いながら瞳を閉じると、在り
し日の俳聖の霊魂の花は今もこの部屋の暗闇に現れ、
開花するのが観える気がする。
瞳を開けると、壁には一本のススキの陰が、頭を
垂らし、揺れていた。
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第3回批評祭参加作品