接触
相良ゆう
世界との関係交渉の最も基本的なものは触れることである。
触れること、すなわち接触することは関係交渉の根本であり、私たちは接触することなくしては他のあらゆる存在との関係を持つことはできない。
触れるということは言うまでもなく接触することであるが、聞くということは聴覚器官が振動した空気と接触することによってはじめて起こる生体反応であり、嗅ぐということは臭覚器官が臭素という物質(元素)と直接接触することにより起こる反応である。また見るということは接触とは関係ないように思えるが、視覚器官に光が接触し起こる生体反応である。関係交渉の出発点はやはり触れること、接触であると言えるだろう。この世のあらゆる関係交渉は接触することにより始まるのである。
ここまでは「現実の世界」における話である。私たち人間はいわゆる物理的法則の支配する「現実の世界」に存在していると同時に、それらの法則を超越した世界、現実の世界とはまったく別の世界、「物語の世界」にも存在している。現実の世界においては接触が他との関係交渉の入口であった。物語の世界においてはどうだろうか。
物語の世界においては、現実の世界のように接触が関係交渉の入口とはならない。物語の世界を構成する媒体である言葉は、現実の世界を構成する媒体である物質とは異なり、他と接触する性質・属性を持っていない。現実世界を構成する媒体である「物質」と概念世界を構成する媒体である「概念」は、夫々互いの干渉を全く受けない、完全に隔絶された世界に存在し、夫々の世界の法則にしたがって存在している。
しかし私たちは「もの」に「名前」を付けることによって、二つの隔絶された世界に存在する二物を無理やりに繋げた。本来は関係を持たぬものに関係性を持たせた。関係性の創造(これにより人間の問題が複雑化したことを皮肉るなら、関係性の捏造と呼んだほうが妥当であろうか)、これこそが人間の最大の特徴である。
なぜこのような関係性を作ることが出来たのか。それにはまず「もの」の存在が不可欠である。次に「もの」を指示するものとして「ことば」の存在である。さらに「もの」と「ことば」の関係性を創造し、それを忘れないでいることが不可欠である。それゆえ関係性を成り立たせる最も重要なものは「記憶」である。「記憶」こそが人間の人間たる由縁である。
現実の世界の事物との関係交渉の基本は接触であった。では物語の世界の事物との関係交渉の基本は何であろうか。実はこれも接触である。しかし物語の世界における接触は、現実の世界における接触とは性格をことにする。なぜなら概念や観念には物質のように明確に思える境界がない。ある概念がある概念を含んでいることもあれば、全く対立するものとして接触していないように思えるものもある。物語の世界における接触とは「同一性」である。「もの」の世界には全くありえないものが、観念の世界においては関係交渉の基本として存在している。
わかりやすくするために心理学の言葉である「アイデンティティー(自己同一性)」について解説してみる。私たちは体を持ち、言葉を持っている。それが私という存在の最も簡単な証である。しかし体と言葉(心)はそれぞれ属する世界をことにする存在である。それら二つを統一的なものとして、「私」として認識することこそ、アイデンティティーに他ならない。自己同一性とは、体と心の両方を「私(自己)」として認識しているということである。そして同一性障害とは、体と心の統一がなされていない状態に、何らかの理由で陥ったことにより起こる精神的障害である。最も卑近な例としては、性同一性障害というものが在る。体は男なのに心は女であると、またはその逆に、心が認識しているのである。
概念同士の接触とはどのようなものであろうか。思想の違いは概念の衝突であると言い切れるであろうか、それとも接触せずに棲み分けが可能であろうか。答えは棲み分け「可」である。概念が存在する世界は現実の世界と比べて無限に広い。そこではあらゆる可能性が同時に存在することができる。民主主義と共産主義が全く同じ世界に接触も衝突もすることなく存在することが可能なのである。私たちはしかし私たちは思想の違いで衝突する。これはなぜであろうか。
これは思想という概念が衝突しているのではなく、「私」という概念が、他の「私」という概念と衝突していると捉えると分かりやすい。たとえば民主主義を標榜する「私」と共産主義を標榜する「私」は、私という概念の存在のために衝突する。思想は衝突しないが「私」は衝突するのである。これには明確な理由がある。思想は体を持たないが、「私」は体を持っているからである。ここで「私」という概念の性格を振り返る。「私」という概念は体と心の両方を「自己」として認識することで作られる。心だけなら私たちは衝突する必要が無かったであろう。しかし私たちは体をも含めて「自己」という概念を形成している。此処に問題がある。現実世界の事物との関係交渉の基礎は接触である。この絶対のルールが物語の世界の自己である心にも、余りにも無批判に、余りに無闇に、適用されているのである。
結果、異なる主義主張を持つ「私」は、現実世界のルールに従って、物語の世界においても衝突するのである。それを最も明瞭に照明しているのが、インターネットでの罵詈雑言などの言葉の応酬である。思想と思想が純粋に論争を繰り広げる姿ではなく、「私」と「私」とが醜く殴りあう姿である。最近は良く見かける光景となってしまっているのが残念である。接触を考えることによって我々人間の問題が明らかになったかと思う。現実と物語の区別を無視してそれらを統一した「自己」を形成すること、すなわち物質と概念を「同一」のものとして認識すること。これが人が抱える問題の本質である。宗教的に言えば、人の犯した過ちである。原罪である。このために我々はいつまで経っても真の平穏というものを得られないのである。現実世界において平穏に暮らすことは、天国に住むのと等しい。天国は死後の世界ではなく、この世に顕現しうる世界である。天国では接触はあくまでも接触であって、衝突にはならないのである。
最期は少し宗教的になってしまったが、実は私は宗教が何を教えてきたのかを表現したかった。私の拙い文章が宗教の崇高な真の教えを充分に伝えきれたかどうかは分からない。論理的にも問題が残っているかもしれないし、さらに此処では宗教における最大の関心ごとである「愛」について全く触れていない。ただ宗教が語る人間の本質について私見を述べただけである。今の私のできる限りのことは書きつくした。私は満足である。私は宗教者ではないので、とりあえずこのくらいで充分とする。誰かがこれを読んでくれて、何かを感じてくれれば本望である。願わくば日本にはびこる宗教に対する偏見を拭う、ほんの少しでも寄与ができたらと思う。宗教は人の本質を抉り出す。真の宗教が表現しようとするものは、人を超えた存在、すなわち私たちの問題が克服された状態であるからだ。その姿を少しでも見たいから、宗教は主張し表現するのである。
長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。