批評祭参加作品■現代詩の記号論2
葉leaf
2.現代詩の記号論的分析
2.1.記号論の基本
表現が内容を「意味する」という関係が成立しているとき、その表現はその内容の「記号(サイン)」であるという。たとえば「猿」という言葉(表現)が、外界に存在する猿もしくは猿のイメージ(内容)を意味するとき、「猿」は猿の記号である。このときの表現を「記号表現」もしくは「シニフィアン」、内容を「記号内容」もしくは「シニフィエ」、関係を「記号関係」と呼ぶ。この節では、(1)記号の分類、(2)記号を律する規範(コード)、(3)トドロフの「象徴作用」、について説明しておく。
まず記号の分類について。記号は伝統的に三種類に分類されてきた。すなわち、「イコン」「インデックス」「シンボル」である。
S1.イコンはたとえば肖像画であり、記号表現(肖像画)と記号内容(モデルになった人)が類似しているような記号である。
S2.インデックスは近接性に基づく記号であり、時間的・空間的近接性や因果関係、全体と部分の関係などによって成立する。たとえば煙が火を因果的に意味するとき、煙は火のインデックスとなる。
S3.シンボルは無契性(記号表現と記号内容が本質的には無関係であること)を特徴とする。たとえば言語である。たとえば「猿」という記号表現は、なんら現実の猿の特徴を反映していないし、現実の猿と近接しない。
また、動物的実践的世界での記号を「シグナル」と呼び、人間的観想的世界での記号を「シンボル」と呼ぶ分類もある。たとえば交通標識のように行動を支配する記号がシグナルであり、哲学用語のように人間の思考でもっぱら使用されるのがシンボルである。
さらに、「既成の記号」と「新しい記号」という分類を立てることも可能であろう。既成の記号とは、社会的慣習的にあらかじめ表現と内容の対応関係が定まっているものである。言語記号の大部分は既成の記号である。それに対して新しい記号とは、たとえばある昆虫の特定の行動(記号表現)に対して生物学的な機能(記号内容)を新たに見出すときに生み出されるものである。詩人が独自の隠喩表現を使って独特の意味内容を指示させるような場合も、既成の慣習に縛られない新しい記号が生み出される。
次にコードについて。我々は沢山の記号を使ってコミュニケートしている。たとえば言語を考えてみればよい。我々は無数の単語を複雑につなぎ合わせることでコミュニケートしているのである。これら無数の記号の織り成す体系がある。そして、そのような体系を規律する規範がある。この規範のことを「コード」と言う。
コードには「意味論的コード」と「統辞論的コード」がある。意味論的コードとは辞書のようなもので、記号表現と記号内容の対応関係を規律するものである。一方で統辞論的コードとは文法のようなもので、記号表現たちの結合の仕方を規律するものである。
ここで「選択制限」について言及しておこう。たとえば「青い軽蔑」という表現を考えてみる。この表現は文法的には許容される。だが、軽蔑については色を考えることができないから、「青い」と「軽蔑」の結合は原則として論理的には許容されない(隠喩としては許容されるが)。このような、語の論理的意味による結合の制限を選択制限と言う。
選択制限は、意味論的コードによる規律であると同時に統辞論的コードによる規律でもある。このことについて少し説明しよう。まず、原則として、「青い軽蔑」という記号表現に対応する記号内容は存在しない。いわば「青い軽蔑」は「辞書に載っていない」のである。だから、「青い軽蔑」は意味論的コードにより拒絶される。一方で、「青い」と「軽蔑」の結合を禁止することは、語と語の結合を規律することだから、統辞論的コードによる規律であるとも言える。
さらに、コードを補完するものとして「コンテクスト」に言及しておこう。メッセージの受け手は、コードだけではメッセージを解読できないことがある。たとえば、「私は象だ」という発言は、それが、「好きな動物は何ですか?」という問いかけの後に言われたものだというコンテクスト(文脈)の理解があって初めて正しく理解される。そのようなコンテクストがなければ、発話者が象という動物である、という意味にとられかねない。
最後に「象徴作用」について。トドロフによれば、象徴作用とは、二つのシニフィアンもしくは二つのシニフィエのあいだの類似的連合もしくは近接的連合である。語は象徴作用によって、自身と関連するシニフィアンやシニフィエを喚起する。トドロフは象徴作用を4つに分類している。
Sy1.シニフィエの類似(炎と愛、同義語など)
Sy2.シニフィアンの類似(同音異義、語音類似、韻など)
Sy3.シニフィエの近接(文化的意味、バラが愛を喚起するなど)
Sy4.シニフィアンの近接(パロディなど)
ここで特に注目すべきはSy3で、だいたい「共示作用」あるいは「コノテーション」と呼ばれるものと一致する。「バラ」という記号表現はバラという記号内容を意味する。この通常の意味作用を「表示作用」と呼ぶ。この表示作用を前提として、「バラ」とバラの両方を記号表現として、愛という記号内容を意味するのが共示作用である。「バラ」という記号は、シニフィエの隣接によって(愛を伝えるためにバラを贈るという社会的慣習に基づいて)、愛という内容を喚起するのである。
2.2.芸術としての詩
芸術の非記号的側面を強調し、芸術の本質はその非記号的側面にあるのだと主張することも可能である。
TA.芸術は、記号作用によって鑑賞者に感銘を与えるのではなく、それ自身として鑑賞者に感銘を与える。芸術はそれ自身として自律性・完結性を持っている。
この主張は、抽象画や音楽についてはある程度妥当する。抽象画や音楽は原則として、明示的には何かの記号ではない。たとえば抽象画はその色や線、構成などによって直接鑑賞者の情緒に訴えかけてくる。何かを指示して、その指示内容を媒介にして鑑賞者に訴えかけてくるわけではないのである。
では、TAは詩についても妥当するのであろうか。詩が言語で出来上がっている以上、詩の記号性は明らかであるが、他方で詩がそれ自身として直接情緒に訴えてくる側面もある。詩が自律性・完結性を示すのは、その(1)視覚性と(2)音楽性の側面においてである。
まず視覚性について。ここで田村隆一の「恐怖の研究」から次の箇所を引用する。
かれらは殺到する
かれらは咆哮する
かれらは掠奪する
かれらは陵辱する
かれらは放火する
かれらは表現する
言葉の意味をしばし無視して、文字の形だけを注視してみよう。「かれらは する」という比較的単純で丸みを帯びた、量産された台のような物に、「殺到」「咆哮」などの複雑で角張った造形物がはめこまれている。「量産され整然と並べられた台の上にそれぞれ異なった複雑な構成物が載っている」、我々はこの箇所において、このような視覚的印象を受け取る。その印象は特に記号作用を媒介とすることなく詩そのものから直接与えられる印象である。詩は第一次的に、文字の形や配置といった視覚性において読者に与えられる。そして、視覚性の段階でも詩は自律し完結しており、そのものとして読者の情緒に直接働きかけるのだ。
次に音楽性について。ここで松浦寿輝の「ウサギのダンス」から次の箇所を引用する。
トリウサギならばパタパタロンロン耳をふり ユルルンユルルンとのぼってゆく
「パタパタロンロン」は「耳をふ」る様子を意味する擬態語であり、「ユルルンユルルン」は「のぼってゆく」様子を意味する擬態語である。これらの語は、一応は記号内容を持つ記号なのである。だが、両方とも、既成のコードにはない擬態語であり、「新しい記号」として詩人が創造したものである。だから、読者はたとえば「パタパタロンロン」に対応する状態をすぐには思い浮かべられず、それゆえその時点では意味が不在である。シニフィエが不在なのだから読者の注意はもっぱらシニフィアンへと向かう。そこで、読者はもっぱら音に注意を向けるのである(当該擬態語は表音文字であるカタカナで表記されているので、読者の音に注意する傾向はさらに強まっている)。読者は「パタパタロンロン」「ユルルンユルルン」を前にして、何らかの意味を読み取るよりはむしろ、その音の響きを楽しむのである。音は詩そのものとして自律性・完結性を持ち、記号作用を媒介することなく直接鑑賞者に働きかけるのだ。
ただし、詩の音楽性については少し注意しなければならないことがある。それは、詩は多くの場合、音声で聴かれるのではなく文字で読まれるということだ。詩が読まれるとき、第一次的に与えられるものは文字である。音は第二次的に与えられるのである。たとえば、「犬」という文字は、記号表現として、/inu/という音声(記号内容)を意味する。音は文字の記号作用の結果として与えられるのだ。詩の読者が音を楽しむとき、そこでは文字が音声を意味するという記号作用が先立っているのである。だから、詩が文字で読まれるときは、詩の音楽性は、文字が音声を意味するという記号作用を前提としているので、自律も完結もしていないことになる。
最後に少し注意を促しておく。たとえば音楽性は、記号作用を媒介することなく直接鑑賞者の情緒に働きかけると私は言った。だが、この場合、音楽性によって引き起こされた情緒的印象を、その音楽性の意味であると考え、そこに記号作用を読み取ることができはしないか、という意見も考えられる。だが、その意見を採用すると、およそすべての対象は、人に認識されることにより、その認識内容を記号内容とする記号であるということになってしまいかねない。たとえば犬を見て犬の視覚的イメージを得たとき、犬はそのイメージの記号であることになってしまう。これでは記号の外延が不当に広がってしまい、「記号」という語の「記号と非記号を区別する機能」が著しく減殺される。私はそのような意見は採用しないことをここに明言しておく。
2.3.記号としての詩
さて、TAに対しては批判が可能である。たとえば宗教画の美は、鑑賞者の抱く宗教的感情を抜きにしては語れないことが多い。ところが宗教的感情は、その宗教画が何を描いているか(何を意味するか)を知ることによって初めて生じるものである。宗教的感情は、宗教画の意味作用を前提にして誘発されるのである。だから、意味作用を度外視しては、宗教画の美を十分に語ることができない。
あるいは、詩の比喩を考えてみる。たとえば「青い軽蔑」という隠喩を考えると、ここでは「青い」という語と「軽蔑」という語の意外な結びつきによって(選択制限を破ることによって)美が創出されている。結びつきが意外で新鮮だと感じるのは、「青い」「軽蔑」という語の意味を理解しているからだ。「青い」が色を表し(意味し)「軽蔑」が精神作用を表す(意味する)ことを理解しているからこそ、結びつきの意外性が認識され、ひいては美が認識されるのである。ここでも、美の創出に意味作用が一役買っている。
さらに、ここで宗左近の「月の光」から次の箇所を引用する。
魚にエラ呼吸というものがあるのと同じように
この宇宙には月呼吸というものがあるのですよ
ここでは、「月呼吸がある」という思想的発見が鮮烈であり大変美しい。このような認識的な美が詩行の意味作用を前提に成立していることは言うまでもないだろう。
このように、一見非記号的な働きと思われる美の創出に関してさえ、意味作用が不可欠の役割を果たしている場合があるのだ。意味作用がある以上、記号論はそれを分析することができる。記号論は、当然、美的ではない論理的構造的対象を分析することが可能だが、それにとどまらず、美的な対象をもある程度は分析することができるのである。
では、具体的に現代詩を記号論的に分析していくことにしよう。
2.3.1.意味論的コードの拡張
記号表現と記号内容は原則として一対一に対応する。たとえば「演算子」は「関数に関数を対応させる写像」を一義的に意味する。もちろん多義的な記号もある。たとえば「子」は「両親の間に生まれた人」「雌雄の間に生まれた動物」「養子・継子」「年少の者」など多数の記号内容を意味する。しかし、記号表現が一義的であれ多義的であれ、通常の記号使用は既成の社会的慣習的コードに従っている。
これに対して、詩における記号使用は、
Ex1.既成の記号に新たに共示義を付け加える
Ex2.新しい記号表現・記号内容を創造する
ことによって、既成の意味論的コードからはみ出て、意味論的コードを複雑化し、拡張する。
Ex1について具体的に見てみよう。ここで拙作「法学」から次の箇所を引用する。
ひとつひとつの霧分子の硬い表面には権利が駆けめぐっている。創世記の時代には、権利は太陽の核内のねじれた闇のなかで、憂鬱に葉を茂らせていた。太陽が天球へとしずくを落としはじめると、権利は種となり、地上の分子たちの喜びの籠に下獄した。
「権利」は「自己のために一定の利益を主張したり、これを受けたりすることのできる法律上の力」という表示義(通常の意味)を持っている。この引用部では、それを前提とした上で、「権利」の意味内容に、新たに「権利の観念的内容を物質化した植物体」という共示義が付け加えられている。この共示義の付加は、文脈によって行われる。この引用部で作者は、「権利」という語を通常の文脈から引き離し、通常はありえない文脈に置くことで、「権利」に新しい新鮮な意味を持たせ、読者に驚きと感銘を与えようとしている。
Ex2はさらに分類することができる。
Ex2a.造語を作る
Ex2b.隠喩を使う
さてEx2aについて。造語を作るにもいくつか方法がある。(1)ひらがなやカタカナで全く新しい語を作り出す、(2)既存の言葉を結合させる、(3)新しい漢字熟語を作る、などである。
(1)の例として、天沢退二郎の「創世譚」から次の箇所を引用する。
ある日新鮮なホンダワラが
少女の死体にとんできてからみつき
ぐいぐい街路に曳いて走り出した
「ホンダワラ」は新しい記号であり、その記号内容は文脈によって充填されていく。とんできてからみつき走り出すから何かの生き物のようだが、「新鮮な」とあるから食物のようでもある。そのようなものが「ホンダワラ」の記号内容である。もちろん、「ホンダワラ」の語感から、なにやらほんわかしているがちょっと怖そうなものというイメージを抱くことも可能である。語感も「ホンダワラ」の意味形成に一役買っているのだ。
(2)の例。たとえば瀬尾育生のある作品の題名は「むらさき錯誤」というものである。もちろん「むらさき錯誤」という語は辞書に載っていない。新しい記号なのだ。意味も新しく付与される。
(3)について。岩成達也の「マリア・船粒・その他に関する手紙のための断片」から次の箇所を引用する。
では何故かかる皮膚病があたし達において生じるのか? それは、あたし達の船粒の内的深部の欠落−あるいはむしろ、欠落そのものであるあたし達の船粒の内的深部に、原因する。
「船粒」は造語である。だが、(「むらさき錯誤」についてもそうだが)「船粒」は「ホンダワラ」とは違い、文脈に依存しないでも、それ自身で意味を確定させることができる。「船」「粒」の意味内容から、「船粒」の意味内容は推測できるのである。たとえば、「船の本質を粒状に凝縮したもの」といった具合である。(3)のケースも、新しい記号表現と記号内容の創造であり、意味論的コードの拡張である。
次に、Ex2bについて。河津聖恵の「grazia…」から次の箇所を引用する。
この夜にほとばしる無は声を高め
時間を抜けおちる光は卵色から銀色へ
無は、論理的にはほとばしったり声を高めたりすることはできない。無は存在しないからである。また、光は、論理的には時間を抜けおちることはできない。時間は場所ではないからである。「ほとばしり声を高める無」「時間を抜けおちる光」は詩人が新しく創造した記号表現であるが、選択制限を破っているがゆえに、論理的には無意味であり、慣習的な意味を持たない。だが詩人は、こういった記号表現に、比喩として何らかの「記号内容的なもの」を持たせることを意図している。ここで「記号内容」ではなく「記号内容的なもの」と言ったのは、隠喩の意味するものが具体的に明確に特定される必要は必ずしもないからである。隠喩によって解釈の可能性の広がりを提示するだけで、読者に美を感じさせることはできるのである。
もちろん、あいまいな「記号内容的なもの」では満足できない読者もいるだろう。そのような読者は、詩人が創出した新しい隠喩記号の記号内容を特定しようとする。たとえば「時間を抜けおちる光」。ここでは、まず時間と空間が一体化されているのかもしれない。空間を透過してくる(抜けおちてくる)光は、それゆえ同時に時間をも透過してくることになるのだ。つまり、「時間を抜けおちる光」という記号表現は、「時間と一体化した空間を透過してくる光」と言う記号内容を意味するのだ、と読者は創造的に解釈することが可能である。ここでは、詩人が創出した新しい記号表現に、読者が新しい記号内容を付与している。このことによって、意味論的コードは拡張されるのである。
2.3.2.統辞論的コードからの逸脱
彼は知っている
水とは
怖るべき渇きを
溶けているということ
高岡修の「形状記憶」から引用した。「溶ける」は自動詞であるから、文法的には、すなわち統辞論的コードからは、目的語をとることはできない。ここでは「溶ける」が「怖るべき渇き」という目的語をとることによって、そのような統辞論的コードが破られているのである。
語は、「名詞」「形容詞」「自動詞」「他動詞」などの範疇に分かれていて、その範疇の結合の規則に従う。たとえば形容詞は名詞の前に置かれたり述語として配置されたりするものと決まっている。文法的範疇の結合の規則は強固に決まっている。だから、たとえば形容詞が主語の位置に置かれたりすると、「形容詞も主語になれるのだ」という主張は却下され、「形容詞が名詞化されたのだ」という主張が採用される。たとえば「美しいは醜い」において、「美しい」はもはや形容詞ではなく名詞なのである。
それゆえ、引用部においては、「自動詞も目的語をとれるのだ」という主張は却下され、「自動詞が他動詞化された」という主張が採用される。つまり、「溶ける」は他動詞化されていて、それゆえ目的語がとれるようになったのである。ここでは新しい結合の規則が創出されている。すなわち新しい統辞論的コードが創造されたのである。
「溶ける」を他動詞としてとらえるのならば、溶けるものは溶けることによって何らかの対象に働きかけなければならない。この引用部では、「水」が「溶ける」ことにより「怖るべき渇き」に何らかの働きかけをしているのである。試みに次のような解釈をしてみよう(あまり良い解釈ではないがこのくらいしか思いつかなかった)。水は水自身に常に溶けている。そして、この溶けるという変化は、水の本質として、水の潤いを示している。この潤いは渇いたものを敵対するものとして排斥する。「潤いとして正反対のものを排斥する」これが他動詞としての「溶ける」の意味である。水が「怖るべき渇きを溶けている」とは、水がその潤いを示すことによって、敵対する渇きを排斥することである、と。ここでは「渇きを溶ける」という新しい記号表現に、「潤いを示すことで渇きを排斥する」という新しい記号内容が付与されている。意味論的コードも拡張されたのである。
2.3.3.解釈の可能性の広がり
言語記号は、固有名などを除けば、たいてい普遍性を持っている。たとえば「雪が降る」という表現を考える。この表現には「解釈の可能性の広がり」が伴っている。「雪」は粉雪かもしれないし牡丹雪かもしれない。「降る」といっても、大量に降っているのかもしれないし少しだけ降っているのかもしれないし、場合によっては吹雪いているのかもしれない。
そのすべての可能性を、「雪が降る」はカバーしている。
だが、「雪が降る」の場合、読者は即座にその意味を理解できる。「雪が降る」はコードをなんら逸脱しない表現であるから、コードを参照すればよいだけなのだ。しかも人がコードを参照して意味を読み取るという過程は自動化されている。原則として、特に解釈する必要がないのである。場合によっては、文脈を参照することにより、「ここでは吹雪のことを言っているのだ」などと解釈することもあるかもしれないが、それはむしろ例外である。読者はコードの教える意味で満足し、ことさらに解釈しようとは思わないのだ。
それに対して、2.3.1、2.3.2で見てきた「コードを逸脱する表現」は、慣習的に自動化された記号作用をすることができない。2.3.1のEx1では、それまでにない新しい共示義が創出されているわけだし、Ex2では新しい記号が創出されている。2.3.2で挙げた例では、語の文法的範疇が変更されている。読者は、詩人が提示する記号表現に対して、慣習的に固定した記号内容を付与することができない。コードを逸脱する記号表現を前にして、読者は、「記号内容的なもの」すなわち「解釈の可能性の広がり」を心に抱くだけであり、即座には記号内容を特定することはできないのである。
コードに従う記号表現(CSとする)においては、慣習的に固定された記号内容が前面に出てきて、解釈の可能性の広がりはほとんど無視されていた。しかし、コードを逸脱する記号表現(ACSとする)においては、固定した記号内容がないために、解釈の可能性の広がりが前面に出てくる。しかもCSたとえば「雪が降る」においては、解釈は、固定された意味を中心にその細部を充填していく作業であるのに対して、ACSたとえば「船粒」においては、そもそも中心的な意味などなく、すべての解釈は原則として相対的である。Ex2aとして紹介した「船粒」は、「船の本質を粒状に凝縮したもの」という解釈のほかにも、たとえば「船を構成する原子・分子」、などの解釈を許容し、それらの解釈はどれが中心的というわけでもなく、原則的に等位である。
ACSでは解釈の可能性の広がりが前面に出てきて、そのあいまいさ、含蓄の深さが読者に独特の情緒的作用を及ぼすことがある(場合によっては美感を喚起する)。たとえば「時間を抜けおちる光」を読むと、読者は解釈の可能性の広がり(これはしばしば「豊穣である」と感じられる)に直面し、分からないなりにもなんとなく「いいなあ」と思う。詩人が意味論的コードを拡張したり統辞論的コードを逸脱したりするのは、言葉になりにくいものを言葉にしようとするためでもあるが、読者の「いいなあ」という反応を得るためでもある。
2.3.4.「世界の法則」というコード
よく判断できなかったが、彼女らは、何かかすかな歓喜に酔っているらしい。かわるがわる、交替しては、殺し合っているのだ。
ひとりが痙攣しながら死ぬと、次は、生き残った娘が、死んだ娘に、胸を切り裂かれる。剃刀が閃めき、麻縄が舞い、やがて、彼女らは、ぼろのように、ちりぢりに散乱して、雪に埋まったのである。
粕谷栄市の「犯罪」から引用。ここでは、死人が人を殺している。「死人が人を殺す」においては、「死人」に特に新しい共示義が付加されたわけではないし、新しい記号が創造されているわけでもない。だから意味論的コードは拡張されていない。また、「死人が人を殺す」は、主語−目的語−動詞という定型的な語の結合規則に従っているので、そこに統辞論的コードの逸脱・創造があるわけでもない。さらに、死人も人である以上論理的には行動できるので、選択制限が破られているわけでもない。だから、言語の次元ではこの表現はなんら問題はない。
だが、我々の常識から言って、死人が人を殺すことなどありえない。それは自然法則に反することである。「死人が人を殺す」という出来事は、言語の側から禁止されるのではなく、世界の側から禁止されるのである。
我々の現実は、自然法則や人間関係の法則などによって規律されている。それらの法則を「世界の法則」と呼ぼう。世界の法則もまた、テクストを規律するコードとして働く。現実にありえる出来事は許容されるが、現実にありえない出来事は、原則として世界の法則により禁止される。これは言語が要請するコードではなく、世界が要請するコードである。
世界の法則が破られるときに現れる世界は、現実存在しえないが、論理的には存在しうる。そこでは現実と論理が激しく対立する。読者はその対立に身をおきながら、新奇な世界の現出に胸をときめかせる。世界の法則というコードを破ることによっても、読者に情緒的興奮を与えることができるのだ。
3.結論
詩は鑑賞者に情緒的感銘を与える芸術作品であると同時に、論理的構造や機能を持った複雑な構成体でもある。だから、詩を誠実に受け止めるためには、その芸術作品としての側面だけではなく、論理的構造体としての側面にも目を向ける必要がある。分析とはまさに詩の構造体としての側面に目を向けることであり、もちろん限界もあるが、詩に対する誠実さの一つの現れである。
分析の価値を、鑑賞の価値をはかる尺度ではかってはならない。分析には鑑賞とは違った目的がある。分析の目的に徴すれば、分析の価値をはかるためには、それがどれだけ詳細に、統一的に、重層的に、発見的に、構造的に、論理的に詩を理解できるかという尺度によらなければならない。この尺度によれば、理論的分析が優れたものであることが分かる。
詩は、記号作用を媒介せずに直接読者の情緒に訴えかける側面もあるが、記号作用を媒介にして読者に感銘を与える側面もある。だから、詩の美的作用も部分的には記号論的に分析することが可能である。
現代詩においては、意味論的コードや統辞論的コードが破られ、新しく記号やコードが創造されることがある。その際、新しくできた記号の記号内容はただちには特定されず、解釈の可能性の広がりとして読者に与えられる。これが読者に美を感じさせることがある。
特殊なコードとして「世界の法則」がある。世界の法則を破ることによっても、読者に詩的感興を与えることができる。
本稿では、詩の「コードを破る側面」に主に注目してきた。だが最後に、特にコードを破らなくても十分美しい詩は書けるし、特にコードを破らない詩行も詩においてはたいへん重要であることを指摘しておく。それは、ストーリーや思想、認識、情景、感動などを分かりやすく直接示すことで、現代詩においてはむしろコードを破る表現よりも重要なくらいである。そのようなものの好例として、高見順の「葉脈」から引用する。
僕は木の葉を写生してゐた
僕は葉脈の美しさに感歎した
僕はその美しさを描きたかつた
苦心の作品は しかし
その葉脈を末の末までこまかく描いた
醜悪で不気味な葉であつた
現代詩のもっと多くの側面について記号論的に分析したかったが、紙数が尽きてしまった。芸術の記号論的分析にもそれなりの価値があることを分かっていただければ幸いである。
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