冬の日の夜
龍二
「冬の日」
冷たい土を素手で掘り進める。霜が降りた河川敷の土が、稀に指先に噛み付いた。擦り切れたジーンズの膝、素肌との温度差に徐々に感覚を失っていく。
50m間隔の街灯の光を頼りに、自分が立っている場所よりも低い位置を確かめるのは困難だった。
穴に手を入れ、手の先が底にある時に、肘が穴の淵にある程度の深さまで彫った所で、作業を止めた。
傍らの温度の低い毛皮を抱き上げて、静かに、ゆっくりと、川面の音さえ遮らないぐらいに、それを穴の底に置いた。
朧月が更に濡れる頃には、その穴は不自然な程周囲に溶け込み、何処に穴があったのかわからなくなった。
一握、土を拾い上げ、もう一度その土を地表に落とす。何事も無かったかの様に、汗一つかいていなかった。ただ、膝と手に、冷たく残る遺言を残すばかりだった。
白い息が、街灯の光を歪ませているのか、景色の乱反射する光を捉えきれずにいる。にじんだ紫の曇り空を見上げた、そこには何も無いと知っていた。
教室には誰もいなかった。何事も無かった。人々が懐かしむ光景なんて、何処にも在りはしなかった。
繰り返される食物連鎖と、真っ黒に塗りつぶされた画用紙を見る様な感情、何も無い場所に、何かがあるかの様に騒ぎ立てる群像があるばかりで、子供の頃は見えていた人間の顔が、無くなっていた。
体が大きくなるにつれて、何が記号で、何が実像なのか、区別がつかなくなっていた。
「空気」と呼ばれている男がいた。「空気」を阻害する人々がいた。「空気」に対して、手を差し伸べない人々がいた。
影で「空気」を蔑む人々がいた。でも、それらは同じ記号でしかなかった。何も区別する手段が無かった。
細胞分裂を繰り返す微生物が、違う微生物と結合して、また分裂を繰り返し、淘汰されいく様子に、それは似ていた。
彼らは、そうは思っていないのだと言う。何が何なのか、大人になるにつれて、わからなくなった。
何週間か後に、「空気」は忽然といなくなった。人々から「空気」は最初から無かった物として扱われた。
そして、また新しい「空気」が生まれ、少しだけ、胸が苦しくなった。
燃える様な色彩を放つ土手を自転車を引いて歩く。風を感じて、目を細めながらゆっくりと歩いた。
揺れる枯れ草がこすれ合う音と、遠くで自動車が走る音が混ざり合って、雑然とした表情を土手に植えつけた。
生まれ変わるのだとしたら、この風景になりたいと思う様な、そんな風景を目に焼きつけ、家路をゆっくりと進む。
踵の潰れたローファーで少しずつ歩く。ハンドルを持つ手には軍手をはめていたが、既に指先は体温を失っていた。
視線を少し下に向けて、子供の頃、まだ人間の表情が世界にあった頃の話を思い出したけれど、それは下らない事だと思った。声にならない言葉を心に吐き捨てた。
毎日、真っ赤な風景を背に、何かを裏切り続けている。本当に抱きしめてやりたいのは、世界を失い、真っ暗な狭い部屋に閉じ込められた子供の頃の自分だった。
新しい「空気」は、泣いていた。新しい「空気」を手に入れた記号の集合は、形容できない形をしていた。
眉をひそめて、入りかけた教室を後にし、トイレで嘔吐した。
何が原因か、わからなかった。教室では今日も何も無かったし、誰もいなかった。
記号の集合が手に入れた幾何学的な模様は、神経を細切れにされ、燃やされている様な気持ちにさせる模様だった。
あの顔にべったりと張り付いた模様を見ると、心を隅々まで鉛筆で灰色に塗りつぶされる様な感覚に陥った。
本格的に、人々が記号になった。「空気」と、群像。それだけでしか無かった。
翌日、「空気」はいなくなった。何処にもいなくなった。もう一度、誰かが穴を掘る必要があった。
きっと、何も思わずに、冷たさに耐えながら、指先の感覚を殺して、体がすっぽりと消えてなくなるだけの穴を彫り、歪んでいく世界に目を凝らして帰っていくんだろう。
記号は、ケタケタと音を立てて震えた。嘔吐感は、もう無かった。真っ暗な部屋で震えていた、子供の頃の自分を殺してしまった。
だから、何も感じずに、忘れる事が出来るのかも知れないと思っていた。
「空気」の両親は、何故か私に感謝していた。「空気」は、私だけが「空気」を影で蔑む事も、疎む事も、無視する事も無かったと語っていたと聞いた。「空気」の両親は泣いていた。
真冬の夜道を方向など考えずに走り出す。顔や、首筋が熱を持ち、肺や呼吸器が焼け付く様だった。朧月も、静かな川面も、何もかも感じられなかった。何かから逃げ出したのか、何かを追いかけたかったのかも分からない。
でも、走らないといけない。
誰も私を許さないだろう。記号は誰にも覚えられはしない、でも誰も私を忘れないだろう。
「何にも無かった」と、本当に思っていた。「誰もいなかった」と思っていた。それでも誰も許しはしない。
「あなたのような優しい子と一緒のクラスでよかった」と、「空気」の母親は言っていた。
冷たい土を素手で掘り進める。霜が降りた河川敷の土が、稀に指先に噛み付いた。
記号の数だけ、数え切れない程の、墓標が必要だった。数え切れない程の、感情が必要だった。子供の頃の自分が、暗い部屋の真ん中で笑っていた。
世界が表情を取り戻したのかも知れない。色彩を取り戻した扉の向こうで、私を抱きしめた。
赤い色彩を纏った掌で、土を盛った。突然、背後から「嘘吐き」と言われ、振り返る。
「もう、俺を」