詩人たちに継ぐ
熊髭b
年始である。最近はもっぱら書くことから遠ざかってきた。年末年始になると、まとまった時間ができるため、この場所に戻ってくる。外はシンとしている。
ここ最近はとくに安心した言葉が読みたいと思うようになっている。安心とは何だろう。自らについて語られた言葉を読むことがだんだんしんどくなってきた。自ら語る言葉も正直しんどい。自らの存在を証明するために、誰しもが多弁だ。
背景がない個が、ひたすら個を消費して凌いでいる。物語は、読まれるそばから忘却されていくのは、積み重なることよりも、すばやく流れて新しいメモリーを創出することを目的としているからか。
これだけ雄弁に自己を語る言葉が氾濫するそばから、忘却されるために言葉は忘却されていく。器のない入れ物(というのもおかしな言い方だが)から、ただただ水が流れている。この場合、水が言葉だとすれば、器とはいったい何なのか。私が思う安心の問題は、この問いに集約されているのかもしれない。
届けられるべきは、不特定多数ではない。特定のだれそれである。特定少数である。そして、表現と日々の暮らしが、乖離していては心もとない。表現の場として、自分自身を不特定にすることは、不安だ。言葉が不安を帯びている。その不安を緩やかに共有することで、私たちは自分自身を確かめている。皮肉なことにも。
安心とは明確な事を指すのではない。不明確なものを不明確なまま付き合う作法である。だから詩の揺らめきは、「世界」を肯定する。肯定とは、むき出しの個ではなく、器に向けられるものではなかったか。自己決定に頼りすぎた言葉は、結果的に「世界」をも切り捨ててゆく。しかし、「世界」を切り捨てないところに肯定があるのではない。「世界」を手繰り寄せるところに私は「世界」の肯定を見ていたい。
「世界」に対して、「世間」は複眼である。「世間」の複眼は「世界」の単眼を包摂し、埋没させる。「世間」の複眼から見る「世界」があり、「世界」の単眼から浮かび上がる「世間」もある。
日常の具体的日々が「世間」だとすれば、観念的な言葉に遊ぶ時間は「世界」である。「世間」が複眼だといったのは、その生成の構成要素が、「世界」という観念的な言葉の時間に比べて、多様だからである。だから、簡単に「世間」を言葉にすることはできない。
今の言葉を取り巻く状況は、「世間」を自らを引き受けることなしに、「世界」の自己を肥大化させている。その結果「世界」は矮小化され、やがて物語りは消費しつくされるだろう。
「世間」を自ら引き受ける。このことが、言葉を辛うじてを成り立たせている第一義であることを忘れてはいけない。引き受けられないから、「世界」に逃げ込むのではない。私たちが「世界」という言葉を使うとき、それはすでに、どこにでも逃げ込む準備ができてはいないか。
自分と他者の間に成り立つ「世間」を引き受けている。私はそんな言葉の「世界」に安心を覚える。「世界」は逃避の単眼ではない。「世間」の複眼を生き、その複眼の中で自分の旗をどこに立てるか、その所在の在り処が「世界」を帯びる。
そして、その心もとない旗を持ち、また「世間」にまみれていく姿が、詩人の本分である。もし旗の色が変わってしまったならば、その変わったことを「世間」で引き受け、「世界」を鍛えればいい。旗が折れれば、「世間」に立ち戻り、「世界」を再構築すればいい。
言葉は、忘却のためにあるのではない。ましてや、自己同一性を確認するための道具でもない。問いの立て方の方向性の間違いに、詩人たちは目覚めなければいけない。大丈夫。言葉は、忘却にあがらうため、それはすなわち、他者の存在を全力で証明するためにこれだけの歴史を費やしてきたのだから。