カモノハシのパンセ5
佐々宝砂

罪を憎んで人を憎まず、
無知を憎んで人を憎まず、
誤解を憎んで人を憎まず、
えーいとにかくなんでもいいから、
人を憎まず。

駄作を愛することはできる。
駄作の作者を愛せるかどーかは定かでない。

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素敵な悪役になりたい。
(どんなじゃ)

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死の対は生ではなく性である、という言葉があって、なるほどなと思った記憶がある。私たちが死ぬのは、生があるからではなく、性があるからだ。性を持たず単純に分裂して増えるイキモノは死なない。性を持つイキモノは次世代に生を託して死なねばならぬ。

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人生、あまり焦らない方がいいとおもう。
そいで、一人合点で絶望するのはすごく損だとおもう。
一人よがりで有頂天になるのは、
かなり悲しいことだとおもう。
一人相撲で自分を責めるのは、
つらすぎるのでやめたほうが幸せだとおもう。

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現実のわたしという個人は、べつにたいした人間ではない。等身大のわたしなんてつまんねーよー。つまんねーけど、とりあえずわたしはまあわりと幸せだし、なんと驚いたことにわたしは自分が嫌いではない。わりと、すきだ。わたしにはわたしが大切だ。でもそれと別な次元で、わたしなんぞは実にどーでもいーささいなシロモノで、ゆえに、わたしの生活やわたしの個人的な感慨を記した詩なんかわたし以上にどーでもいーのである。たぶん。

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さまようひとはさまよえばいい。消えるひとは消えたらいい。居残るひとは居残ればいい。残ってほしい消えないでほしいと私が祈ったところで事態はほとんどかわらないだろう。

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現実をみないで空想してる理想家はしあわせだけど、現実をみる理想家に不機嫌はつきものなのだ。だって現実と理想はあまりにも乖離してるもんな。でも、ま、あんまり眉間に皺寄せてると私のびぼーに傷がつくから、今日は不機嫌でもにこにこしてよう。にこにこにこ(不気味・・・

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たぶん脱出口はある。現在の私に見えていないだけだと思われる。

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がまんしましょう。耐えることで人間大きくなります。

なんて嘘さ。泣いても泣いても欲しいものが得られなかったあかんぼうは、あるときから泣かなくなる。おなかが空いてもおむつが濡れても泣かなくなるんだそうだ。つまり、手がかからなくなるんだそうだ。しかし、それはちっともよいことではない。そういうあかんぼはまだあかんぼだってのに「諦める」ことを覚えてしまったということなのだ。

私は諦めないぞ。私は手のかかるあかんぼでいるぞ。負けないぞ。言いたいことは言うぞ。

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どこかに進みたいなあ。行ったことのない場所に行き着きたいなあ。やったことないことしたいなあ。それってどこだろう。なんだろう。私はなにをやりたいんだろう。どっちに進んだらいいんだろう。っていうか進まなくてもいいや、横道でも後ろ向きでもいいや、ここじゃないどこか。
知らないドコカ。

数年前は、ランタン掲げて私の前を歩いてくれる人がいたなあ。あのひとはいまどこで何をしているやら。

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私は去るものを追わない。来るものを拒まない。去ってゆく人にさよならを言うのが好きじゃない。「さよならというのもなぜかふざけた感じだし」、と歌ったやつもいたぜ。だから私はさよならを言わない。「行ったきりなら幸せに」なりゃいいのだ。そして、「戻る気になりゃいつでもおいでよ」なのだ。勝手にしやがれ。
↑こういうの引用って言うのかな、言うよな。
(無論「勝手にしやがれ」阿久悠作詞)

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もっとも速いものこそが光であり
そうでないものは光ではなくなるのだ。

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急がない。
慌てない。
せかさない。
そして絶望しない。

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ファウスト的な求道と堕落の双方を兼ね備えた物語『悟浄出世』は、沙悟浄の空しくも感じられる「自分探し」ゆえに、高原英理的に言えば沙悟浄が「偏奇な個」であろうとしたがゆえに、近代のみならず「現代」に通じる問いを投げかけているように思います。『悟浄歎異』は、中島敦が差し出したひとつの解答でありましょう。三蔵法師という「弱い個」を中心とした孫悟空・沙悟浄・猪悟能の結びつきは・・・と書き続けるとやばいとこにつながるのでちょっと話を飛ばして、孫悟空のような体力バカと、沙悟浄のような頭でっかちバカと、猪悟能のような欲望バカをなんとか救い上げとりまとめることができるのは、一般的な意味での権力ではないと思うのです。そして「現代」という時代は、三蔵法師のような「弱い個」が持つ権力にすらおびえはじめていて、それゆえ、『悟浄歎異』の調和的な解答は、現代に生きる私たちの指針になりえません。しかし私たちは、中島敦の問いと答をなんども熟慮できますし、熟慮するべきだと思います。問いは投げかけられて、未だ答は見つからず、答であるかもしれないと思った何かが、私には今や危険物のようにも思えるのですから。

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私は私としてとっても「普通」である。私は特別だなんて主張はしない。したくもない。単に私は私なだけである。自分を隠すのは非常にメンドクサイ。自分を主張するのもメンドクサイ。だけどときどきは主張しなくちゃ誤解されまくる。私は「私を愛してくれ」と主張はしないし、「私を理解してくれ」とも叫ばないが、最低限、せめて、あまりな誤解はやめといてもらいたいなあとおもうのだった。

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我が畏友が、私のことを評して「単純毬栗」と言った。実はものすごく単純なのに、イガ・鬼皮・渋皮と三枚も皮をかぶっているかのように、自分を隠してるように見えるからだそうだ。実に気に入らない評だが、気に入らないのはたぶん正しいからである。

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未来の夢は「宇野千代的いじわるばあさん若い愛人つき」、
なので、意地悪の修行をしておこう。

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求められないことを書いてもいいか。いいに決まっている。うんそうだろう。必要ないことを書いてもいいか。害がなきゃいいだろう。害ってなんだろう。誰かを不快にするなら害があったということなんだろうな。でも不快なことでも必要なことは必要なことだ。私の書くことにより誰かが不快になるかもしれないとして、でも私はそれを予測できない場合がある。そこまで責任はとれない。

アタリマエだけど私は神様ではない。

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泣き言を言えば気が晴れそうなら私はいくらでも泣き言を言うぞ、しくしく。
でも、自分で歩くぞ。泣き言言いながら歩くぞ。

二十歳ぐらいの時ハワイに行って、海で泳いだことを思い出す。白人の子どもたちが飛び込み台で遊んでいて、十二歳ぐらいの女の子が一人飛び込み台の上で泣いていた。怖くて泣いていたのだとおもう。私はハンパな英会話を使えるのが楽しくて"May I help you?"と女の子に言った。女の子はぽろぽろ涙を流して、でもきっぱりと"No thank you"と言った。手助けが必要な人には手を貸したい。手助けが必要なときは私も手を借りたい。でもそうでないときは手を貸すべきじゃないんだろうし借りるべきじゃないんだろう。でも泣き言言ったっていいのさ、言いたいときは。泣き言なんて言いたくないと言いながら泣いたっていいのさ。たぶんきっとそうなのさ。

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私は現在この世界に必要とされていない。それはそれほどつらくない。なんなら多少の努力で必要とされるようにもできる。自慢でも自負でもなく単に事実として、そうおもう。

他の人のことは一時おくとして、いま私に必要なのは、教師だ。私に手取足とりときに優しくときに厳しくいろんなことを教えてくれる人だ。で、これまでの私の一生の経験則に照らし合わせると、おそろしいことに、私は・・・

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私はさいきん、絶望にも希望にもあんまり興味がないのかもしれない。悲劇的状況でも絶望しないやつはしないし、喜劇的でも(とゆーより喜劇的であるからこそ)絶望するやつはする。

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壊れたバランスであってもかまわないのだけど、バランスがとれてなくちゃ俳句にはならない。よくわかんないけど、そういう気がした。まだ考えがまとまってないので、きちんと考えなくちゃいけない。俳句は、なんで、俳句なんだろう。前にどこかで書いたけど、「朝起きてごはんを食べて歯を磨く」が俳句でないのはなぜなんだろう。

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私はソーラーだぞーミーハーの上をゆくんだーって「ソーラー」とは私が造ったコトバではなく、かなり昔、ミーハー族よりやや高級(笑)なひとびとの総称としてつくられたコトバなのであった。ミーファーの上なのでソーラーなのです。単なるだじゃれですよほんま。ソーラーが定着しなかったのは、ソーラーなひとびとが世に少なかったからであろう。
(それは嘘です。でも「ソーラー族」というコトバが存在してたのは本当です)

さあ、集えソーラーなひとびとよ!

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なしょなりすとになってみようかしらーといっしゅんかんがえた。かんがえたらこわくなったのでひとまずやめたが、なっちゃうかもしれない・・・私に誠実さがなかったら、私はほんとに、宗教家やある種の思想家になってしまうのかもしれないとおもった。やっちゃいけないことはやめよう。うん。いくら新しいネタだとおもってもやめよう。私は煽動しない。心に誓っておこ。こっそりと。

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村上春樹ではなく、村上龍のごとくに無責任に、かつ節操なく、でたらめの混沌であれ、私。

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私はほんとにすこしでいいからきのうと違うことがしたい。

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言わずもがなのことを書いて反省する私は成長しているのでしょうか謎ですがともかく変質してはいるようです。変質者ではありません。たぶん。

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同じようなことを書いた文章は、きっと世界中にごまんとありましょう。同じような争いも歴史のなかにたくさんありましょう。だから悪い、とは申しません。人は好きな地平に立てばよいのです。そして好きにもの言えばよいのです。私は私の好きな地平に立ちたいなと思います。もっともなかなか簡単にはいかない。好きにもの言えばもめごとが多くなり不自由になるので、私はどうしようか考えあぐねたまま立ち止まっているような気がします。

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長生きする予定なので急ぎません。

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沈黙の練習ってむつかしいね。



散文(批評随筆小説等) カモノハシのパンセ5 Copyright 佐々宝砂 2007-12-23 01:57:37
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